*一番最初のプロフィールの記事を先に読むことをお勧めします。

こんばんは。
塔の上のラプンツェルとやらを最近2回見ました。
元々Disneyアニメ好きなんですが、これは近年まれにみる
良いアニメでした。

さてさて、ラプンツェルの塔と同じぐらいの(いや、もっとか)高低差の較差社会が生まれたと小泉元首相の構造改革以後言われています。

そこで今回は小泉構造改革は一体どういうものだったのかを、俺の妄想を交えつつ私見を書いていこうかと思います。

まず、先に断っておかなければならないことがあります。
私の個人的な意見としましては、貧富の差=不平等 とは考えていませんし。
また、所得の差で人生の勝ち負けが出るとも考えていません。

その人の人生が勝ちの人生だったか、または負けの人生だったか。
それを決めるのは主観的評価では、自分の人生、生活が充実していると思うならならそれはどのような状況であっても誰が何と言おうと、その人の人生は勝ちだと思いますし。
また、客観的指標では、後世がその人の人生を見た時どれだけその人を評価するのか、あるいは自分のやってきた仕事等の功績に対して後世がどう判断するかで差異が出てくるのかなとは思いますが、それは他人の自分に対する評価なので、別段本人が気にするようなことではないと思います。

というか、私は死なない限り95%は勝っていると私は考えています。
とりあえず、どうにか生きていれば再起のチャンスはどんなところにもあると思うんですね。
もちろん、そのチャンスのためのハードルは人によって高さはマチマチだと思いますし、そう簡単に乗り越えられる壁ばかりではないでしょうが、死ねばそのチャンスも0ですが、いきていれば0じゃないので、私は死んだら負け、死ななければ勝ちと普段考えています。

ちょっと話がずれました^^;

つまり、何がいいたいかというと、これから所得の差を格差と便宜的にここで私は使いますが。
私は所得の差=格差とは考えてないですよってことです。
これについては、また別の記事で細かく書いていきます。

さてさて。
まずは小泉構造改革とは何かについて書きたいと思います。
ぁ、俺の記憶を頼りに書いていますので、あってるかあってないかはご自身で調べてください。

小泉構造改革は、一言でいえば専売などの特権を廃止し、そういう政府が後ろについてる会社(公社)も自由競争の波にのせようっていうものでした。
具体的には、たとえば郵政民営化が一番わかりやすいと思います。
それまでは郵政公社として、一種の公務員と言う形で運営し、郵便事業の専売特権を持っていた郵政公社から専売を廃止し、他の会社も郵便事業に参入できるようにしました。

じゃあこの構造改革の狙いは何だったのかと言いますと。
小泉さんは不況の打開策として、とにかく全ての業界に市場経済の力を働かせ、自由競争を行わせることによって、価格競争によって低価格で、またより良いサービスを競わせることによって、低価格高サービスにより、急成長してきている中国などに対抗しつつ、日本の生産力をあげ、海外競争で勝っていこうという狙いだったのではないかと思われます。

しかし、その結果いわゆる較差社会がなぜ出来てしまったのか。
市場原理が働くことにより、どの業界でも自由競争となりますと価格競争が始まります。
コストを抑えるにはそれなりのノウハウと、システム改善のための資金が必要になります。
また単価利益が下がるので、それを補うためにはより強力な生産力も必要となりその資金も必要となります。
つまり、資本力がある会社はどんどん業績を伸ばせる一方、資本力がない会社はどんどん衰退していくという事態になってしまったわけです。
そういう弱肉強食の世界となり、その結果倒産する会社があいつぎ、いわゆる勝ち組、負け組という大きな開きが出来てしまったんですね。

これが一連の小泉構造改革の流れかと私は解釈しています。

何故今この小泉構造改革について触れたかはちょっと、今私が考えていることとつながっているので、また改めて書きたいと思います。

今日はその前フリということで^^ノノ

*ひとつ前の記事から読んでください。

さっき気づいたんですが、抽象と単純について触れ忘れていましたね。
まぁだれも興味ないとは思うのですが、ちょっとさっきラーメン食べているときに気になってしまいまして。

誰でも思ったことあると思うんですが。
ピカソの絵(抽象画のほう)を見て、俺にも書けそうとか、幼稚園児でもかけるんじゃないかとか。
実際には俺はNoだと思うんですね。
確かに見た目に少ない線や色遣いで表現されているのは同じだと思うんですが。
中身が異なると思うわけです。
幼稚園児の絵は単純に思ったことを、技術や知識が乏しいために少ない線や色遣いでものを描いているのに対して。
ピカソが行ったことは、最低限の表現で最大限の情報を表現したのだとおもうんですね。

これをさっきの話とリンクしてわかりやすくたとえるなら。
たとえば、音楽シーンなら。

美術    :音楽ていうか詩         :文章

幼稚園児の絵:某J事務所のアイドル達が歌う曲 :小学生の作文
印象派の絵画:BUMP OF CHIKENとか具体的な歌詞:説明文、わかりやすい文体の文
抽象画   :有名な詩人たちの詩       :少ない言葉で書かれた一見簡潔な文

て言う感じでしょうか。
ちょっと具体的な人名あげるとおれの趣向が入りすぎるため
わかりやすさを重視して具体的に上げなかったところもあるのですが。
まぁ俺が言いたいことを対比で表せば上見たいな感じ。

一番上の項目は論に値しないぐらい、技術、知識レベルが乏しすぎるため表現力が乏しいもの、対して抽象というものは、最低限の表現だけで最大限の情報を描こうとしたものという差があるわけですね。

ただ、ここで一応補足的に言っておきたいのは、俺は印象派、具体的なものが駄目だと言ってるわけではありません。特に芸術分野においては具体的な表現と言っても、さまざまな技法や工夫があるためそれを骨がない、パンチがないと一蹴してしまうのは少々乱暴だと思います。

まぁといっても、技術力が乏しいものは正直受け付けられませんし、それを喜ぶ人たちがたくさんいることが私には少し理解できませんがねw

そんな感じ。
今日のBGMはRIZEでした♪
こんにちは。

いきなりこのブログでやろうと思ってたこととは違う関係ないことを書いてしまいます。
自己紹介の次の初投稿のテーマが「その他」っていうのは大分問題な気もしますが、まぁブログだからいいですよね^^;

さてさて。
今回は抽象と具体、抽象の美しさについて書こうかと思っています。
別にそんな難しい話をしようとは思っていません。というか、難しい話はアホな俺には出来ないのですがw
ちょっと昨日思ったことについて書こうと思います。


俺は普段クラシックを聴ききません。
理由は単純に親父がクラシック好きだから、嫌いなだけで、クラシック自体が嫌いなわけではないです。

さて、そんな俺ですが、俺が最近読んでる石田衣良著の『池袋ウエストゲートパーク』シリーズでは、主人公のまことが、イマドキの若者にも関わらず、Hip-HopやROCKではなくクラシックを良く聞くんですね。 

『池袋ウエストゲートパーク』自体は、カラーギャングやヤクザ達と絡みながらまことがその時々の社会的問題をモデルにした事件を解決していく物語で、とにかくカッコいい話なんです。
で、やはり気になったのが、まことが考え事をする時、家業の八百屋(というかフルーツ屋か。)の店番をする時、西口公園でボーっとするとき、色々な場面でクラシックを聴くんですね。

昔ちょっとやんちゃしてて、今は街のガキの相談役みたいな、少し強面なB-Boyだけど、情に熱く、それでいて優しい、カッコいいやつがクラシックを聴くギャップ(←俺の偏見がもろに出てるけどいいたいこと分かる人は多いはず)がすごい衝撃的で、ちょっとクラシックに興味を持ったんですね。

で、俺の話に戻しますが。
うちには親父が趣味で集めたクラシックのCDが何千枚かあるんですが(職場には家の数倍規模で置いたあるらしい)。
ちょっとまことの真似して俺もクラシック聞くかと思って、小さいころ聞いて少しだけ良い曲だなと思えたドビュッシーを聞いてみました。
親父が普段きくどっしゃんがっしゃんやってる意味わかんないクラシックと違って、すごい聞きやすくて、きれいな曲でとにかく聞きやすいんです(←重要なので二度言いましたw)。
ただ、数曲聴いていたら、どこか物足りなさを感じたんですね。
たしかに聞きやすいんですけどパンチがないというか。
フォルムは綺麗なんだけど、太い骨がない。みたいな。


で、ドビュッシーって音の印象派って言われてるじゃないですか。
それで思い出したんですが。

俺が小学校4年生ぐらいの時、上野の国立美術館でピカソ展がやってて、それに連れて行ってもらったんですね。
その当時ピカソの若いころの印象派の絵を初めて見て、ものすごい感動して。
晩年の抽象画を見た時に、こんな意味わからない絵を書かないで、ずっと印象派の絵を書けばよいのにと当時は思ったんですよ。

しかしですね、高校3年生ぐらいの頃から現代文、小論文の勉強をしているうちに、ふとあることに気づいたんです。
昔は具体的な説明を加えてわかりやすく書いている文の方が、短い象徴的な言葉だけで綴られている文よりも、わかりやすい良い文だと感じていたのに、勉強をしていてある程度文を読めばその筆者がどの程度の文の知識や語彙力があるかをわかるぐらいになってきた時、長々と説明を加えてわかりやすい言葉で書いている文章がまわりくどくてめんどくさく、それでいて幼稚な文だと思うようになってきたんですね。
要はもっと単刀直入に言えよみたいな。
そうなってくると、じゃぁ何が良い文なのかという話なんですが、美しい文はなるべく少ない言葉で多くの情報を与えてくれる文であると思うようになったんですよね。

でも、昔はそういう短い言葉だけで綴られている文を読んだときは、「何だこれ?」って感じで全然読めなかったはずなのに、勉強をして知識をつけた後だとわかりやすく感じ、美しくすら思えたという。

で、絵もやはりそうなんですよね。
最初のうちは印象派の絵を沢山見て、綺麗だなと思っていたんですが、途中から飽きてくるんですよ。
でも、画家が何を伝えたいのかや、画家の生涯についてちょっと調べた後に、その画家の抽象画を見る、というよりは読むと抽象画なのでものすごいそこに書いてあるものは極々シンプルなんですが、膨大な情報がそこには詰っているんですよね。

で、この二つに共通してることは何かっていうと、具体的に言いたいことが示してあるものは、初学者でもある程度受け入れやすく、誰にでもわかるという利点があるものの、どこか幼稚というか深みのようなものがあまりないということ(とはいっても絵画の場合は印象派と一口にいっても様々な技法があり、絵には画家の思想や生活など様々なものが反映されるため一概に抽象画のほうが深いとは言い難いが)。
しかし、ある程度知識を積み上げてから見てみると抽象的な物の方が、少ないものの中にある膨大な情報の衝撃に感動し、あきにくく、深みが出るという共通項があると思うんですよね。

つまり、何にそんなピーンと来たかと言えば。
多分そのドビュッシーを聞いた時に、最初は聞きやすく美しいと感じたにも関わらず、深みがなく骨がないように感じたのは具体的すぎるからなのではないかなと自分の中で推測したんですね。
まぁ俺が聞いたCDはクラシックにあまりなじみがない、ドビュッシーを知らない人用に選曲されたものなので多分聞きやすいのが選んであると思うので、このCDだけでドビュッシーを判断するわけにはいかないのですが、俺が言いたいのは、ききやすい、わかりやすい物よりも、一見すると不可解な抽象的な物の方が深みがあり面白いということが言いたいわけです。

少ないもので、たくさんのことを表現する。
抽象ってすごくないですか? 

みたいなね。

美術とは程遠いおれが美術、芸術論に触れるのはいかがかとは思ったんですが。
最初から政治とかの暗い話するのも嫌だしねw

とりあえず、今はこの辺で。

お昼ごはん食べてきます。