日本空手道 葉隠塾東京本部 瞬機必殺の理 -356ページ目

続 アバンギャルド

続 アバンギャルド

言わば、極真会館大山倍達総裁は当時で云えば空手界のアバンギャルドだったのです。

新鮮でした。斬新なのです。

空手を現代に受け入れ易くした前衛的空手だったと云えます。
極真会館売り出しの頃、僕は伝統派である止めの空手におりました。

従って古きを守る派と、新しきを息吹く正反対の組織だったのです。


しかし、何時の世も若者の憧れは新鮮な流れに向います。
それには極真空手の出現は待ち構えられた出来事だったのです。若者は魅せられました。

洗練された当ての組み手の斬新さ、凄みを感じさせながらお洒落だったのです。
現代のヒーロー的選手も多く誕生しました。極真で優勝すれば即有名人でした。

極真会館は新しき武道の星にまで昇華したのです。


しかし、その大山総裁も志半ばの70歳で亡くなられました。

当時池袋の本部道場で修行中の息子が帰宅し、『総裁の風邪が長引き治らないんだ。』
そう云うのを聞き嫌な予感が頭を過りました。
『それは永すぎるな。変だね。』そう云った覚えがあります。

何とその予感は驚く早さで現実となったのです。

云うまでもなくご本人もまた周囲もそんな成行きを考えてもいなかったことでしょう。
当然準備も心構も出来てはいなかったのです。

まだまだ極真会館も上り坂。
その勢いは衰えを見せてはいませんでした。


よそさまの組織、僕などが知る由もありませんが、世界に及ぶ会員数は他の組織を大きく
凌いでいた事でしょう。
ビジネスマンの僕から見たら『大山総裁は大企業並みの素晴らしいインフラを残された。』
きっとお弟子さん達が組織を守り、総裁のこしらい上げた極真会館は不滅だろうと信じ切っ
ていました。


松井館長は、愚息がお世話になっているだけではなく選手としても以前から好感を持って
いた方でしたので分裂が始まったのが信じられませんでした。

息子の竜が、総裁が亡くなられた後、『総裁が決められた松井館長にお前はもう不要と云わ
れるまで付いて行きたいと思う。』それに対し『それで良い。』そう答えました。それは
つい先日のように思えます。

分裂後、極真会館、極真空手が同時に消えたのであればそれはそれで解せます。

大山総裁のお墨付きを頂き認可を受けた松井館長の極真会館は残り、同時に極真を謳う
他の団体も出現しました。理由は組織的に団体名が登録されておらず、大山総裁亡き後
はパブリックドメイン状態(特許権、著作権が消滅、誰でも自由に使える状態を云う)
だったからと聞きます。

大山総裁ご存命であれば例えパブリックドメインであっても許されることではなかった
でしょう。

もし、武術や武道界の古い習わしが残っていたら、それでもそう云う結果になったで
しょうか。

大山倍達総裁一代で築いた組織が個人の死と供に本人以外の手で分裂して行ったのです。

その後、先に振りました雨後のマッシュルーム(茸)のようにフルコンの各派が発生して
行きました。中には極真を謳わない団体も多く含まれます。

大山総裁亡き後、誰はばかる事も無くフルコンの流派は増え続けて行くのです。
アバンギャルドに始まり、アバンギャルドに翻弄されて行ったのです。

アバンギャルドの説明:習わしに捕われず革新的な行動をとること。前衛的先駆者。


葉隠塾  成嶋弘毅


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アバンギャルド

アバンギャルド


英語では雨のあとのマッシュルーム(茸)と云い、日本では雨後の竹の子です。


雨が降るとあっと云う間に発生するからでしょう。
そうですねマッシュルーム(茸)の方が竹の子よりも更に早い気がします。


これは簡単にものが広がることを比喩(なじる)した言葉です。


昔、空手道を語るには先ず五大流派がありました。
古き昔はなりたいからと勝手に道場の主にはなれません。
師範と認められるまでの道のりは大変険しいものでした。


認可を受ける。お墨付きを頂く。
それなしに資格も権威も認められなかったのです。


北辰一刀流の千葉周作は江戸時代に取り決められた道場の規約や、
昇段の取り決めに手を入れ改善しました。

それに寄り納める上納金が少なくなり、
経済力の足りない修行者には有り難い事だったでしょう。
しかし、それが師範や有段者の乱造に繋がるようなことはありませんでした。


特に剣術の世界は格式を重んじました。
その認可、お墨付きは侵すべからざる権威だったのです。
従ってその免状、認可賞も大変な力があったのです。

しかし、技量に留まらず、指導者になるべき人間の人となりも重要なファクターでした。
技も実力も備わっていても人格が沿わなければ認められなかったのです。


昔の空手界は多分に剣術の影響があり、それに添うものであったように思います。
沖縄をオリジナルとする各流派は独自の基本や型を伝承しておりました。
その中から日本本土に受け入れられ市民権を持ったのが前出の五大流派です。


そのように封建的と云えた空手会に一代旋風を巻き起こしたのが
彼の有名な大山倍達、極真会館総裁だったのです。

何処か常に江戸時代の北辰一刀流を彷彿とさせるものがありました。
派手で刺激的、魅力でした。

お知らせ:明日は続アバンギャルドが出ます。


葉隠塾  成嶋弘毅


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古き良き本能の制御法

人間の基本は間違いなく動物です。
動物は本能で行動します。
しかし、人間には他の動物にない高度な知能を持っているため、
本能的行動を理性で制御します。


先ずはその欲です。
中でも人間を苦しめ、悩ます慾は食欲、性欲がもっとも身体的、
精神的にも制御不可能な欲望です。


食欲も我慢出来ません。我慢したら死にます。


性欲は我慢しても死にませんが人を殺します。
他人の金銭や物品まで盗んでも手に入れたい肉欲の本能です。
更に心も精神も狂わせる猛烈な力を持っている恐ろしいものです。


さて、今日はこの欲望の性欲を主題にお話を進めさせて頂きます。


皆さんも性欲と聞くと、興味津々でありながら顔を背ける人が殆どでしょう。


何故?恥ずかしいからです。どうして恥ずかしいのですか。

それは人間の生理に直結しているからです。
例えば、物心付いてくるとお便所でオシッコするのもウンコするのも人に
見られたくありません。
余談ですが犬猫も排便、排尿を見られるのは嫌がります。交尾は平気なのに。


さらに、子供の頃知らずに性器を触っていると親が必ず叱ります。
そこら辺から秘め事的感情が芽生え始めるのです。


秘め事と捉えれば綺麗ごとですが、それは汚くなればどこまでも汚れ、
おぞましくなって行くのです。


女性が最初に異性を意識するのは
親から遠う回しに教えられる男の怖さではないでしょうか。
親によりその表現は違うのでしょうが、危険信号は何らかの方法で告げた筈です。


武家の家族は長じればすぐに女子には貞節を植え付けました。
そして懐剣を渡し、それをどのような時に使うかも同時に教える事により、
性教育を厳粛なものとしたのです。

僕自身のことで申し訳ないのですが、うちは父が亡く、
6歳より女系族の中で育てられました。
そのせいか、色事を男性的な目線では捉えず、
男性の女性に向けた卑猥な言動を嫌悪し始めたのです。
されど周囲が女性である為、
好奇心と云うよりも女性に対する憧れを持った覚えがありました。


従って嫌らしく卑猥な男達の目は身の毛もよだつほどに嫌だったのです。
男と云えば叔父がおり、それがまた今で云うイケメンで、
喧嘩も強く女性にも持てました。
自分も女性をこよなく愛し、博愛衆に及ぼしておりましたが、
その叔父から卑猥で低俗な男を感じたことは一度もありません。


女性との付き合いもスマートで、
何時の間にか美しい女性は自分の者にしていましたが、
色事を漂わせる匂いを発したことなどなかったのです。
多少色気づいてきた頃の僕が、少しでも女性を語るのに低俗な表現をすると、

『弘毅、色事は扱い様に寄ってはうす汚い汚物のようなものなんだ。
だからこそ尚さら美しく綺麗な包装紙で包んでおくもんだ。
これは俺が親父から教えられたことだ。
お前は親父がいないから今から俺が色事のいろはを教えてやる。』
そのことが懐かしく思い出されます。


女性とは、遊び本気は別にしても美しく綺麗に付き合うべきだと
それ以後更に思いを深めました。


それは、武士道の女性感に通じるものがあります。
決して姿を露にしてはならず、侵してもならない
人間の欲望を押さえつけた異性への潔い自制心です。


されど、汚く汚物化させない遊びも同時に教わりました。
もっとも手こずる本能的欲望の上手な制御法です。


当時、既に遊郭は廃止になっていましたが、全く消えてもおらず、
叔父に伴い楽しい時を過ごしました。

叔父は、親父(僕の祖父)から教えられた遊びを
僕に惜しげ無く与えてくれたのです。
中でも芸者遊びは恥ずかしさもありながら楽しいものでした。


不思議な事にティーンでしたので普通の恋もしたのですが、
それは一途にプラトニックなのです。
僕の『初恋』をご覧になるとその差が歴然とします。
人間の道と本能的な道がハッキリと線引きされていたのです。
機会があれば書きますが、昔の遊びは奥行きがありました。


お陰で、十代に経験する性的罪悪感は全く持ちませんでした。
大らかなものでした。

内容は秘密です。お聞きになりたいと思われましたらお越し下さい。
何時でもおめにかかり伝授致します。


葉隠塾  成嶋弘毅


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風潮

僕は交際範囲が狭いようで広く、様々な交流があります。
中でも好んで接近するのは利害関係の伴わない友人です。
お互い好き自由な意見を交換し、されどお互い関わりのない問題が多いのです。


例えば、今回の災害ですが
お互い間接的にはきっと様々は不都合が起きて居るのだろうとは思いつつ、
親類縁者に直接の被害が無く、
また被災地にも近くない所に住んでいるからでしょうか
テレビなどのメディアでの放送以外意識しないと云うのが事実です。


息子が被災地を訪問し、
如何に皆様が悲惨な思いをされているかを目の当たりにし言葉が詰まった。
と云ってました。
疑いなくそうなのだろうとおもいます。


実は、友人とその事を語ると、
友人は更に関わりが浅いと云う事でした。
大変仕合せなことです。
しかし、それは彼の本音であり、独り言です。


お互い他人を挟み災害の話になると沈痛な面持ちになり、
頭を下げ被害者に追悼の意を示します。
それは丁度子供が知らない老人のお葬式に出席した時と同じように、
家のオジーちゃまでもオバーチャまでもないので哀しみはないのですが、
本能的にそれを感じる様子を示すのです。


しかし事が二次災害の原発となると
これ又話に実感を伴って来るから不思議です。


地震だけでも確かに大きな災害でした。
それは実害があってもなくとも真面目に、
深く心に刻むべき事実である事に違いないのです。


しかし、人間のど元過ぎれば熱さを忘れるの例え通り、
終ってしまえば被害者はともかく、
いつまでもそれを悔い悲しむことは正直ないでしょう。


とは言え、
二次的災害がこのままでは更に広がる可能性を秘めた原発になると話が一偏します。
放射能が益々漏れ、流れ。
空気中にも広がり風に流され雨に運ばれれば場所が
多少離れていても深刻な問題です。
これは本州全体の被害になるでしょう。
今まではある種他人事であってもこれはそうは行かないかも知れないのです。
本州の人間全体の被害者意識に繋がるでしょう。


友と語りました、「人間は現金なものだ。」
火の粉が頭に振りかかって来なければ正直熱くも冷たくもないが、
風ざ向きが変わり、自分に向えば大慌てなのです。


また、実はさほどの関心もないのに被災地、
被災者に関しては腫れ物に触るがごとき神妙な姿勢を示すのです。
また同調しない様子を見せれば誹謗され叩かれる圧力さえ感じてしまいます。
変に冷静な俺達は非国民扱いにされそうだぞ、と友と心配しました。


果たしてこの風潮に如何に対処すべきなのでしょう。
古い道場生に聞きました。

君は何かこの災害で貢献している事があるか。
『自分は原発の近くで取れた産物を積極的に買ってます』

なるほど。これは納得いきました。


あそこの側には行きたくないが、被害に対し同情も援助も出来るだけする。
これが現在の風潮なのです。
しかし、一旦福島に異変が起きれば我々自体が即被害者になる可能性もあるのです。

良く海外からの見舞いの言葉を頂きますと、
もしかしたら一番状況を把握していないのは我々ではないかと不安になります。

僕の今現在の震災の後遺症と実感です。


葉隠塾  成嶋弘毅


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今日の−Secureの再解説

『Secure=確信』は判りにくかったのではないでしょうか。

端的に説明させて頂きます。人に迷いが生じるのは経済的な支えを失った時です。
不安を打ち払う支えを失うからです。

意に反して人に媚びたり諂うのも全て支えを求める卑しさからです。
ならば、そのような卑しい行為をせずに済む生き方を摸索するしかそこからの解放は
ありえません。

他力本願の逆は独立自尊です。
金銭に頼る生活は金銭に振り回され他力本願になって行くのです。

無駄な浪費は慎み、自分で生活を賄う事です。自力で生産することもその一つですが、
先ずは収入に見合った生活が要でしょう。

豊な生活と贅沢は違います。サムライは贅沢を慎みました。惨めな生き方をしたくないからです。
衣服は清潔にまとい、心も身体も清潔に保こと。いわゆる清く正しく美しく生きる方法です。

誇りを支えに生きる方法。
その気高い精神が己に厳しい生活にも耐える力をもたらすのです。
さらにそれは人から侮られる要素も消し去ります。誰も非難出来る問題ではないからです。

今回のように天災に見舞われますとそれが体感出来ます。全てが無意味に帰するからです。

富んで貧しい心よりも質素で富んだ心を持つ努力を致しましょう。
そこに卑しさは微塵もありません。胸張って不自由に挑みましょう。

『自転車に乗り、微笑む女より、ロールスロイスの後部座席で泣く女を選ぶ』
と云った女性がいました。
それはまさに富んだ貧しい心です。

こう云うことをお伝えしたかったのです。

気位を持てば不自由に耐えることが問題ではなく、逆に惨めに諂う自分が耐えられない
ことになるのです。

武士道はこうして育まれました。

6月6日のブログ、Secureの再解説をさせて頂きました。


葉隠塾 成嶋弘毅