今年の「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2022 In EZO」(以下RSR)の出演アーティストは 大変に豪華であった。現在の日本の音楽シーンのショーケースと呼んでも差し支えはあるまい。その中でもぼくが最も楽しみにしていたのが、ご存じ「King Gnu」と、新進気鋭のシンガーソングライター「Vaundy」の二組である。

 

しかしながら両アーティスト共に「体調不良」で出演キャンセルになってしまった。代役は「レキシ」、そして「藤井風」がつとめることになった。

 

 

 

 

その一報をぼくは、RSR開演の前々日の夜に一緒に行く娘からLINEで受け取った。

 

「パパ、藤井風が来るってよ」と。

 

てっきり冗談だと思った。娘がSNSのタチの悪いデマにでも引っかかったんだと。King GnuとVaundyが突然キャンセルになり、その代役がレキシと藤井風だなんて、にわかに信じられる話ではない。んなこと、あるわけがないだろう?

 

しかし、調べてみたら本当のことだった。

 

 

 

 

ぼくはYouTubeで藤井風の楽曲を解説したりカバーをしたりするほどに、彼の音楽に心酔し憧れている。53歳のぼくと彼とでは年齢が30近く離れていることや、ぼく自身が同業者と言える音楽家であることなど一切関係なく、ぼくはまっすぐに藤井風のファンである。

 

 

 

 

真の音楽は世代や年齢など軽く超える。ぼくは「The Beatles」の音楽に憧れ続けているが、初期の名曲を連発していたビートルズ絶頂期の4人は永遠に「20代前半の若者」なのだ。ぼくは「20代の若者」である彼らにずっと憧れ続けているのだ。年齢なんて関係ないだろう。

 

衝撃的なデビュー曲『何なんw』で藤井風ファンになってからのぼくは、比較的熱心に音源や活動は追いかけているつもりだが、ライブは未見だった。

 

まさかここにきて突然、しかもRSRで藤井風を観られるなんて!

こんな幸運があるだろうか。

 

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そんな中、開演したRSR。

 

初日から「ずっと真夜中でいいのに。」や「Creapy Nuts」が大変にエモーショナルなステージを繰り広げ、ぼくも大いに楽しんだ。

 

今年は好天にも恵まれ、様々な名演が繰り広げられ、ぼくの心はひどく高揚していた。会場内ですれ違う観客たちの顔には笑顔があふれ、「音楽が帰ってきた喜び」が広い会場を大きく包み込んでいた。なんと言っても3年ぶりの開催なのだ。特別なことだ。

 

そして、二日目の夜。

 

23:30、「EARTH STAGE」では「フレデリック」が多くの観衆を集めていた。ぼくはメインステージとも言える「SUN STAGE」のスタンディングエリア前方で、遠くから聴こえるフレデリックのご機嫌なサウンドを聴きながら、1時間後に始まる予定の藤井風のステージを待っていた。ステージ上にグランドピアノが運びこまれ、スタッフによるサウンドチェックが入念に行われている。

 

すでに多くの観衆が、藤井の姿をなるべく近くで観ようと、スタンディングエリアに集まっていた。藤井は突然の出演決定であるので、彼を目当てにチケットを購入した観客はいないのだが、2022年の「最重要ミュージシャン」である彼の人気はやはり絶大だ。

サウンドチェックのためにステージ上の照明が眩しく光るたびに、多くの観客が、はやる気持ちを抑えられず少しずつ前方に移動する。少しずつ。

 

EARTH STAGEのフレデリックの音が止んだ。どうやら終わったようだ。そちらの大勢の観客が藤井風を見るために「SUN STAGE」に急ぎ向かってくるのだろう。

 

ぼくがいる前方スタンディングエリアから後方を眺める。人、人、人、そして、たくさんの笑顔。今回のRSRのクライマックスを迎え、観衆の期待が会場を包み、一種異様な興奮状態となっているのがわかる。

 

本来なら24:30に始まるはずの藤井のステージは、しかし15分押しで開始されることが専用アプリでアナウンスされた。ぼくはそれを周りの観客の会話で知った。

 

そうか。

 

あと15分で藤井風があの大きなステージに登場し、幻想的な「真夜中の野外ライブ」が始まるのだ、とぼくは思った。周りの観客の誰もが「あと何分」「もうすぐだ」と口に出したり、強く心で思ったりしているのがわかる。一瞬一瞬に息を呑む。

 

ステージの真ん中には、グランドピアノが一台あるのみ。

 

ぼくは両耳に放り込んだAirPods Proから「きらり」のリミックスバージョンを流し、強いビートに身体を揺らした。そうでもしないと、興奮がおさまらない。もうじっとしてはいられなかった。

 

24:46、ステージ向かって右奥の扉を、黒いシャツを着たスタッフが開けた。数秒後、藤井風がピンクの出立ちで登場。割れんばかりの拍手で我々は彼を迎える。そしてあまりの見た目の美しさに、思わず声が漏れる。

 

「かっこいい」「やばい」

 

颯爽とステージ中央まで歩く藤井。ピアノの上に置いてあるワイヤレスマイクを手に取り、ステージ前方に立ち、眩しそうに我々観客を見る。そしてアカペラでスキャットを歌い始める。場内の空気は完全に張り詰めている。万単位の観衆がじっと静かに見つめている。流れる雲の音さえ空から聴こえてきそうな静寂だ。

 

生で聴く彼の歌、声。ピンク色の「音楽の聖」か。藤井風という形でこの世に降りてきた「音楽の申し子」か。どちらにしても、立ち姿のあまりの美しさに完全に心を持っていかれる。彼の存在のすべてが奇跡であることを、いきなり理解させられた。

 

歌い出したのはVaundyのナンバー「踊り子」だ。Aメロを何小節か藤井がクリアすると、観衆がこの「やさしいはからい」に気がつき始めた。コロナのためにここに来れないVaundyの歌を代役である藤井風が歌う。

本当ならVaundy がここで歌っているはずだったのだ、一番この歌をここで歌いたかったのは誰よりもVaundyなのだ、との思いを込めて。

 

これ以上の粋なはからいがあるだろうか。

 

藤井風は「踊り子」を丁寧に歌う。「風節」としか言いようのない、太くて甘い声で。そう言えば彼は幼少の頃から古今東西の名曲のカバーを身体の中に入れることで、オリジナルな音楽をクリエイトする土壌を築き上げてきたのだ。

カバーとは「原曲への深い愛情と理解」と「歌い手のオリジナルな解釈」が両方必要である。この「踊り子」の風ヴァージョンにはもちろんそれがある。

 

演奏が終わる。一瞬の静けさのあと、盛大な拍手が真夏の夜の空に響き渡った。ぼくも含め、周りの観客はみな、あまりの感動に何度も顔を拭う。

ぼくの身体の機能はどうかしてしまったみたいだ。涙があふれて止まらない。

 

続いてもVaundyの「恋風邪にのせて」だ。ドラマの主題歌にもなった名曲をピアノ一本で歌い切る。

 

そう、ピアノ一本なのだ。歌のピッチもピアノのタッチも完璧なまま、その完璧さにすら気がつかないままぼくたちは、彼の歌声に、彼のピアノに、ただただ、うっとりするのみだ。

 

目を閉じてじっくりと彼の音の世界に浸りたいと思う。目を開けて大きなスクリーンで、彼の表情を読み取りたいとも思う。ステージセンターの生の彼を凝視し続けたいとも思う。それらの動作を交互に行いながら、Vaundyの曲を歌うことを選んだ藤井風の心根のやさしさをも思う。

 

我々が見ているのは「伝説」なのだ。それも日々SNSでバーゲンセールされているような「ライトな伝説」などではなく、紛うことなき正真正銘のそれだ。

 

当代随一のスーパースターが、いかに代役で突然出演が決まったとは言え、いかにVaundyのことを「弟のように思っている」とは言え、ライブ冒頭から続けざまにVaundy ナンバーを歌うなんて。

 

 

 

それも「なんちゃって、カバーしてみたよ」的なものではなく、真正面から真剣に楽曲に立ち向かってである。たった二日でそれをここまでの完成度に仕上げてしまう藤井風。

 

napoli」「東京フラッシュ」と続く。結局Vaundyナンバーを冒頭4曲続けた。圧巻だった。続くMCで無念であろう友人Vaundyへの思いを訥々と語る藤井風。

風自身も最近コロナに罹患した。なのでより一層、Vaundyの無念さと不安がわかるのだろう。

 

「自分の歌も歌わせてもらってもいいですか?」と言いながら、デビューヒット「何なんw」が始まる。日本語をポップスに乗せることに、まだやれることがあることを教えてくれた大名曲だ。岡山弁がファンキーに彼のピアノの上を転がっていく。自然発生的に場内はハンドクラップが起きる。広い空にはたくさんの雲が広がり、その雲は月を隠す。気持ちいい風が吹く。

 

そして「帰ろう」が始まった。息を呑むほど美しいバラード。「死」について歌われていると思しい歌詞なのに、この歌を聴くたびに心の底から「生きる希望」が湧いてくる。いつか「またね」と言う日まで、いつか帰る日まで、ぼくたちは毎日を丁寧に生きなくてはいけないのだ。そんなメッセージをぼくはこの歌からいつももらっている。人を想うこと、人を愛すること。

 

圧倒的な感動に、ぼくはもう涙を拭うのはやめた。別にいいじゃないか。53歳だろうがなんだろうが、もうどうでもいい。涙は心が震えている証なのだ。流れるままにしておけ。ここまで来て、我慢する方が不自然だろう。

 

続いて、藤井風はまた我々を驚かせてくれる。「本当に素晴らしい曲なんだけど、難しい曲なんです」そんなことを言いながら、なんとKing Gnuの「Vinyl」を歌い出した。

 

 

 

 

ピアノを自由自在に操りながら、この変拍子とメロディの跳躍だらけの、それでいてキャッチーな大名曲を藤井風は歌う。何度も言うが、たった二日で一体何曲を自分のものにしているんだ!

 

真夏の夜の夢は続く。こちらも無念の出演キャンセル「カネコアヤノ」のナンバー「祝日」を。シンプルな言葉から愛する人へのまっすぐな思いがじわりあふれ出す名曲だ。

 

 

 

 

「お腹が痛くなったら 手当をしてあげる」と藤井は丁寧に歌う。心をそっと掴まれ、人間の最良の感情が湧き出てくるのがわかる。人は愛する人のことを思うとき、少しでも昨日より良い生き方をしたいと思う。そして何よりも幸せなことは、愛する人と「祝日  どこかに行きたいとか」を話すことなのだ。

 

続いてBiSHの「オーケストラ」。この歌の持つ壮大さは、決して原曲のアレンジの激しさや、それぞれに個性的なBiSHのメンバーの歌唱だけに依るものではなく、楽曲の圧倒的な「強さ」なのだと、藤井風は気がつかせてくれる。もう我々も言葉を失い、ただこの幸せな時間が永遠に続くことを願い、音楽に身を委ねていた。

 

そして、ついに。藤井風自身の代表曲「きらり」。待ちに待ったキラーチューン。そしてこの曲で「小さな事件」が起きる。

 

まずはワンコーラスをグッと感情を溜めこむように歌いはじめ、2番以降にオクターブ上のファルセット(裏声)で感情を爆発させる展開がこの曲のキモなのだが、そのファルセットがかすれてしまって、声が出ないのだ。

 

そうだ。藤井風自身もつい先日までコロナに罹患していたんだ。本調子ではないのだ。しかも、突然の代役で、普段歌いつけていないカバーをたった2日で7曲も準備し、この大きな特別な会場で歌ったのだ。友や仲間のために心をこめて、自分の歌と同じくらい、もしくはそれ以上に真剣に歌ったのだ。

 

いつもと違う声と感情の使い方をしたのと、コロナ明けでの万全の体調ではないことが相まって、かすれた声でファルセットを歌う風。しかし、彼は逃げない。照れて誤魔化したり、省略しようとしたりしない。

 

間奏後の「落ちサビ」ではいつもと違うフレーズを弾き、咄嗟にいつもと違う歌い方を模索しはじめる。ささやくような歌い方をためしてみるがそれでも声が出ないことを察知したのか、普段以上のテンションで再びサビのメロディを歌い始める。が、最後まで声は戻って来ない。

 

しかしながら、我々観衆は、その「かすれたファルセット」に藤井風の真実の姿を見て、深く、深く、感動したのだ。彼は天才でも天使でもなく、音楽を心から愛し、不断の努力を重ねる一人の人間であること。彼は「完璧」なのではなくて「常に完璧であろうとする」のだ。その彼の姿勢にぼくたちは共感し、藤井風をますます好きになる。

 

「ライブ」とは生の真剣勝負。しかも「with piano only」と銘打った、たった一人の自分自身との戦い。その戦いの動機は「愛」なのだ。なんということだろう。

 

歌もピアノも超絶テクニックであることは当然なのだが、それでも彼の最大の魅力は、その歌やピアノが時に「はみ出してしまう」瞬間にある。すべての彼のステージを見ているわけではないので、あくまでぼくの想像だが、彼はどんな曲でも「毎回違うプレイ」をし心がけているのではないか。その日の感覚で、弾き始め歌い始め、そのグルーヴに乗って楽曲は毎度進化していく。まるでジャズミュージシャンだ。

 

ピアノのフレーズを弾きながら、次の曲が最後であることを示唆する藤井風。ぼくは祈る。「"旅路" を歌ってくれ」と。今夜ここで、「旅路」が聴けたなら、どんなに素敵だろう。

 

そうして、彼は静かに歌い始めたのだ、「旅路」を。

 

ぼくが何度か見聴きした「旅路」の弾き語りはもっとオーソドックスなバラード的なビート解釈だったが、今夜のステージでのそれは、元曲スタジオバージョンの硬質なドラムループのグルーヴを再現するかのような、連続的なビートを基調としていた。それがそこに乗る風のエモーショナルなボーカルをより一層際立たせている。

 

特別な夜の特別な「旅路」。観衆の涙は枯れることはなく、通り過ぎていくメロディのすべての欠片が、それぞれの人々の思い出と結びつき、心の中で瞬時に映像化されていくようだ。

 

お元気ですか

僕たちはいつになれど少年です

心の奥底ではいつも

永遠を求めています

 

出来ることなら、ぼくもこの「少年」の仲間に入れてほしい、とこの歌を聴くたびに強く思う。なぜならぼくも、53歳になった今でも、心の奥底で永遠を求めているからだ。

 

53歳の少年でありたい。明日は今日より、やさしい人間になりたい。少しでも、良くなりたい。それを少年と呼ぶのなら、ぼくはいつまでも少年でいたいと思う。

 

この歌は、ぼくの生き方をも強く揺さぶる。

人生という「ロードムーヴィー」の最高のサウンドトラック、特別な作品である。

 

 

「最後にもう一曲」とセルフアンコール。藤井風からのプレゼントは、カラオケを流してセンターマイクで踊りながら歌う「まつり」だ。

観客と共に踊り、大いに盛り上がって、この特別な「真夏の夜の夢」が終わった。

 

藤井風は、ステージ右奥後方の登場してきた扉へと帰っていく。こちらに何度も手を振り、お辞儀をしながら。鳴り止まない拍手。

コロナはいまだ、ぼくたち観客から「声援」を奪ったままだが、そんなものは関係ない。手が腫れるまで拍手をし、気持ちを送る。きっとステージ上の藤井風にも、ぼくたちの思いは伝わったはずだ。

 

思いのこもった歌を演奏を、本当にありがとう。

 

藤井風のステージが終了して、ぼくたちがその余韻に浸る準備をはじめたその時、北海道石狩市の360度見事に開けた広大な、世界中のプラネタリウムが束になってかかっても叶わないほど完璧に美しいカーブを持った夜空から突然、大粒の雨が落ちてきた。

 

空だって感動して涙を流すのだ。そこにいた全員がそう思ったに違いない。空にすら涙を流させてしまう藤井風。

 

雨は5分もしないうちに止んだ。空もまた、明日への希望を、藤井風の歌から受け取ったのだ。普通に真面目に当たり前に、ぼくはそんな風に考えた。もうどんな奇跡がきても驚かない。なぜなら、ぼくたちは藤井風というまさに奇跡に近い存在の音楽家と出会うことが出来たから。

 

例えばイギリスにはレノン=マッカートニーがいて、アメリカにはブライアン・ウィルソンがいる。マイケル・ジャクソンやプリンスはソウルミュージックを新たな地平に押し進めた。BTSがビルボードでトップを奪ったのもアジアの快挙である。

 

いつの日か、藤井風が名実ともに、これらのビッグネームの仲間入りをしても、ぼくはさほど驚かないだろう。そのくらいの強度のあるオリジナリティを彼は持っている。

 

もちろん、彼がそうならなくても、ぼくは全然構わない。彼の新しい歌にいつも期待できること、彼のチケットの争奪戦に参加できること。

彼が歌ってくれてさえいれば、それだけでもう十分幸せなのだから。ファンとはそういうものである。

 

 

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成瀬英樹 3年ぶりのソロ弾き語りライブ

「Garden Party」開催

8月27日(土)開場12:00 開演12:30 @祖師谷大蔵 エクレルシ 

入場チケット3,400円 

ささやかな夏のパーティです。一人でも来ていただけるなら敢行しますので、どうかコロナに気をつけて、ご無理なくお越しください。配信もあります。

 

 

 

成瀬英樹 オフィシャルHP