2000年の初夏、僕たちFOUR TRIPSの3人は関西に、神戸に帰って来たんだ。所属事務所の音楽ディレクターとして、梅田のライブハウスと提携して、ライブイベントの企画を担当することになってね。同時にFOUR TRIPSの活動も並行してやることになったんだけども。

 

僕としては、ディレクターをやりながら、バンド活動をすることに無理を感じていた。イベントの指揮を取りながら、出演もするんだもん(笑)そりゃ無理だよね。

 

梅田のライブハウス「HEAT BEAT」は広く立派なライブスペース。キャパはステンディングで800はあったと思う。そこを毎月、なんとか形になるくらいの動員をするために四苦八苦した。まずは出演してくれるアーティストを集めないといけない。ファーストコールでお声かけをしたのが、馬場俊英さん。

 

当時の馬場さんについて書こう。

 

馬場さんは、所属していたレコード会社との契約が切れて、フリーでライブ活動をされていた頃だ。信じられないことだが、数十人を集めるのに苦労する夜もあったと聞く。その頃、僕の人生の節目のパーティーで「愛する」「センチメンタル・シティマラソン」を歌ってくれた馬場さん、僕の大切な友人と呼ばせていただいて差し支えないと思う。

 

馬場さんは安い出演料にも関わらず、数回に渡って、イベントに出演してくれた。弾き語りの時もあれば、素敵なバンドを連れて来てくれたりもした。どんな時も

彼のステージに感動しなかったことはない。彼の歌は僕の心を捉えて離さない。馬場さんがメジャーでリリース出来ないなんて、音楽業界は根本的に何かがおかしい。僕は真剣に腹を立てていた。

 

お互い同時期にデビューし、同時期に契約がなくなった同年代。僕も馬場さんも30をとっくに過ぎていた。

 

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馬場さんに出演をお願いしていたイベントが、深夜のテレビで少し取り上げられることになったのかな。事前に歌詞が必要になった。馬場さんに当日歌う曲の歌詞をFAXしてもらったんだ。

 

見慣れないタイトルの歌がFAXされて来た。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」

 

新曲だ。僕はその歌詞を読んで、完全に心をぶっ飛ばされた。衝撃を受けた。涙が止まらなかった。よくある陳腐な「泣かせる歌」なんかではない。ストーリーテリングの卓越した技術と、照れ隠しのユーモアの裏の彼の本気。馬場さんは、真剣、本当に真剣に一発逆転を狙ってこの歌を書いたんだ。

 

 

いったい誰があの日オレに一発逆転を想像しただろう?

だけどオレはいつだって次の球を本気で狙っている

いつかダイアモンドをぐるぐる回りホームイン

そして 大観衆にピース

 

 

ライブ当日、馬場さんは「新曲です」とたった一人で、ひとことひとことを確かめるように、まばらな観客の前で「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を歌ったんだ。まだ誰も聴いたことのない奇跡の作品。そして聴いた誰もが、静かに心を震わせたのだ。

 

この歌がのちに、彼の人生を変え、それは僕の人生をも変えたのだ。もしかしたら、この歌は、ありとあらゆる人の人生を変えたのかもしれない。そのくらい圧倒的な歌だ。

 

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「自宅録音でアルバムを作ろうと思うんだ」と馬場さんは僕に言った。

 

「成瀬くん、例えば、ポール・マッカートニーならアコギ一本と簡易的なレコーダーだけでも素敵なアルバムを作ると思うんだよね」と笑顔で彼は言った。この人は本当に強い人だ、と僕は思った。

 

 

 

 

 

いつも読んでいただいてありがとうございます。

続きます。

 

成瀬英樹

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