関学の連中が組んでいたバンド「Revolution倶楽部」に僕がボーカルとして加入したのは、高三の夏の年。リーダーでギタリストの松山が僕をボーカリストとして、やや強引に誘い入れたんだ。

 

僕はボーカルを務めるのは初めてだったし、小さな世界とはいえ意識し合っていたライバル同士だったから最初は戸惑ったけど、松山は、僕がどこかのセッションか何かで歌った「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を聴いて、ええやん!と思っていてくれたらしい。僕のオリジナル曲も気に入っててくれて。それで入ることにしたんだ。

 

 

 

 

関学って高等部でもバンドのレベルが高くて、文化祭に出演するためにもオーディションに合格する必要があった。20以上の関学の校内のバンドがそのオーディションに参加していた。

 

バンドメンバーの1/4までは校外の人間が入ってもいいというルールだった。そのオーディションで三位までに入ったら、文化祭の後夜祭に出られるんだ。関学生にとって高校生活最後のビッグイベントな訳。

 

僕ら本気で一位を獲るためにめちゃくちゃ練習したよ。僕は自作曲にも自信あったし。何故だろう、根拠のない自信ってやつです。

 

結果、一位を獲ることが出来た。嬉しくて抱き合って泣いて喜んだなあ。後夜祭の大トリで僕ら「Revolution倶楽部」は40分くらいのステージを演ったんだと思う。ARBの曲を2曲と松山の曲をひとつ。あとは僕の曲を6曲くらいやったのかな。盛り上がりは尋常じゃなかったね。公立高では考えられないくらいの大イベントなんだ。彼らにとっては高校生活最後のお祭りだものね。

 

 

 

 

その後夜祭を最後に「Revolution倶楽部」は解散した。最初からそういう約束だったんだ。

 

でも僕に取ってはこれが始まりだった。「俺は行ける」と完全に勘違いをしたんだ(笑)この、後夜祭に誘われてなかったら僕はプロになろうなんて絶対に思わなかったはずなんだ。運命だよなぁ。この関学人脈を集めてバンドを組んで、まずは地元神戸で、一旗上げてやろうと目論んだんだ。

 

「EMPTY」というバンドを結成して、翌年の春くらいに、神戸の老舗ライブハウスの「チキンジョージ」のオーディションに出たら受かったので、それから本格的にライブ活動をするようになった。YAMAHAのオーデションも、神戸大会くらいなら勝てるバンドに育って行ったんだ。1987年か。17,8くらいか。

 

そのYAMAHAのオーディションで一緒になったのが、僕と同い年の、大学生時代の榊いずみちゃんだ。可憐で歌の上手い、とても目を惹く女の子だったよ。

 

1987年の夏頃からチキンジョージにはよく出演した。ツアーで神戸にやってくるバンドの前座をやるのが僕ら地元のバンドの役割だったんだ。その頃はバンドブーム前夜で素敵なバンドとたくさん共演させてもらったよ。

 

名古屋の「The NEWZ」、デビューしたばかりの「SUPER  BAD」や「GO BANG'S」「SHADY DOLLS」なんかとも一緒に出演させてもらった。東京からやって来た少し年上の、かっこいいお兄さんやお姉さん達だった。彼らの初期に共にステージに立てた経験は今でも宝だし、本当にいい勉強になったんだよ。