あなたに僕自身の半生を語ろうと決意したのは、あと数ヶ月後に生まれてから半世紀の節目を迎える、ということを意識していないわけじゃない。

 

だがそれよりも、僕は僕の心に長い間居座っているいくつかのネガティヴな感情を、あなたに話すことによって、あなたと一緒に笑い飛ばしたいと思ったんだよ。そして、すべての記憶を書き換え、良き思い出に塗り替えたいんだ。

 

なぜなら、そうしたネガティヴな出来事のたった一つでも、どこかで別の運命の絡み方をしていたなら、僕は今、ここであなたと話をしていないだろう。

 

考えてみると、それは本当に恐ろしいことだよね。

 

過去の全てに感謝するために、僕は今、語ろうと思う。

 

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1984年、高校に入学した。中1でアコースティックギターを始めて、中3で安物のエレキを買って受験勉強もそこそこにずっと弾いてた。高校に入ったらすぐにバンドを組んでガンガン活動しようって思ってた。

 

地元、明石の公立高校に入学した。ヘビメタが流行っていた時代で、僕の高校でバンドといえばほとんどヘビメタ一色だったよ。僕は中学時代にビートルズやストーンズやディランの洗礼を受けていたし、アズテック・カメラやスタイル・カウンシルなどイギリスのリアルタイムのロックにぞっこんだった。まさかヘビメタのギタリストにスタカンやろうとは言えないし、バンドはなかなか組めなかった。

 

 

 

 

いくつかの出会いがあって、私学の名門校、関西学院の高等部の連中と知り合うことになる。関学の校風なのか、すごい自由でおおらかな奴らが多くてね。通学も私服だし、お洒落だし、金持ってるから高い楽器使ってやがるしね(笑)、しかもみんな結構上手いんだこれが。

 

どさくさに紛れて関学の奴らとバンドを組むようになったんだ。引っ込み思案だった中学時代の俺はどこへ行ったんだというくらいに自分を売り込んでね。主にチープ・トリックやクイーンやジミヘンのコピーをやってたね。

 

 

 

 

もちろんビートルズもやってた。関学にKという明石出身の男がいて、彼が僕の相棒だった。歌の上手い男で、ポール・マッカートニーのシャウトなんかも完璧にやれるんだ。「I’m Down」とか「のっぽのサリー」なんかのシャウトもめっちゃ上手いんだ。Kみたいに歌いたくて、いろいろ教えてもらった。「HELP!」や「In My Life」のジョン・レノンのファルセットの出し方とかね。学校の帰りにファルセットの練習をしながら帰る不気味な高校生(笑)

 

日本のミュージシャンで僕がお手本にしようと思ったのは例えば初期のルースターズ。オリジナル曲は見よう見まねで書き始めていた。僕はギタリストとしてのテクニックではとてもヘビメタの奴らには敵わなかったし、歌の上手さじゃ相棒であるKには敵わない。じゃあ曲作りでは絶対負けないぞ、と、色んな音楽を聴いて、コード進行を試しながら曲作りの方法を探っていたよ。まだまだ出来はひどいもんだったけど。少しずつ上達している実感もあった。

 

 

 

 

でも僕のオリジナル曲をKに歌ってもらっても、なんだかしっくり来ないんだ。僕は歌は下手かもしれないけど、自分で作った歌は自分で歌うべきなんだと気がついた。Kとはビートルズなんかを一緒に歌うのは楽しかったけど、プロになるべく本気のバンドを組む相手ではないなと思い別れたんだ。

 

バンドがなくなって、仕方ないからあちこちセッションに顔を出してしてたら、ライバルバンドだった関学のバンドにボーカルで誘われた。いやいや俺、歌下手だしと断ったけど、どうしても歌って欲しいと頼まれた。

 

オッケーじゃあ僕のオリジナル曲をやってくれるならやりましょう、となってそのバンドに参加することにしたんだ。「Revolution倶楽部」って名前のバンド。