1983年
「1年は長かった」と日本ハムの津村潔投手が語った。荒木大輔は調布リトル時代のチームメートだが、津村の方が1年先輩。実績でも荒木を一歩リードしていた。51年にアメリカで開かれた世界選手権で津村は日本チーム優勝の原動力となる。荒木はこの時、第二投手だった。その後、荒木は早実のエースとなり日本中を沸かせたが、津村は明大中野高でくすぶっていた。「大輔と自分の距離がこのまま開くばかりなのかと思うとたまらなく不安になり、日本ハムに飛び込みました」打撃投手にて採用され、背番号66をもらうことになる。自分でもビックリするほど制球力がついた。一日400球の投げ込みはムダではなかった。「体(178㌢、74㌔)の割には球威があり、球種も主力投手に比べそん色ないほど豊富」と植村一軍投手コーチにいわせるまでになった。そして晴れて日本ハムの一員になる。「やっと大輔と同じ立場。これからが本当の競争ですよ」

日ハム津村潔の父親、和四郎さんはうれしくて仕方がないというような声を上げた。バッティング投手から、今年は選手契約となったのだ。津村の名が新聞の片すみに載ったのは七年前。調布リトル時代、世界選手権の西独戦で奪三振15の完全試合を記録した時だ。控え投手に荒木大輔。津村が日本ハムのテストを受けたのは昨年の春。明大中野の池田監督に連れられて、三沢スカウトに見てもらった。島田誠や岡部を発掘した三沢氏のお眼鏡にかなっての入団、丸尾スカウトも「フォームのバランスが実にいい」と期待をかける。昨シーズンは試合前のフリーバッティングに投げた後、スコア表を持ってベンチとの連絡役など雑用に追われた。高橋里が打撃投手上がりなのも、よく工藤から食事に誘われ、「俺も下で三年間がんばったんだ」と励まされたりしたことも心強かった。かつての控え投手荒木は契約金六千百万円、対する津村の契約金は三百五十万円。「契約金なんて関係ないですよ。両親に全部あげました。イースタンで荒木と対戦したら負かしてやろうと思ってます」高校時代、練習試合では6-1で投げ負けているだけに、津村の闘志は燃えさかる。