1975年
「一度でいいから、一軍でプレーしたい。それを目標に…」と、阪神と正式契約を結んだ西浦丈夫選手(18)は、はにかんだ。1㍍82、76㌔の大型内野手、ドラフト外の入団。それも、ことしも阪神の背番号64のユニホームを着ていながら試合には出れなかった幽霊選手。晴れてタイガースの一員となった二年目のルーキーは、オフを返上で来季に備える。西浦がタイガースのユニホームを着たのは、昨年の秋だった。秋季練習で三日間のテストを受け、めでたく合格。身分は年棒百万円の球団職員。平安高を二年で中退してのテスト。昔と違って、いまでは高校卒業見込みの年齢でなければ、練習はできても試合には出れない。「つらかったこと?試合に出れなかったことじゃあ、ありません」という。いやだったのは練習のとき。見物に来たファンのあの64番、だれじゃいという声だった。若手の一員として合宿に入り、同じ練習をしているのに、西浦の名前はメンバー表に載っていなかった。一年間、足踏みしての阪神の西浦。そうなったのは、「うどんのおかげかなあ」と頭をかく。四十九年、平安高はセンバツに選ばれた。西浦も十四人のメンバーに入った。ところが、甲子園に乗り込む矢先になって血を吐いて倒れ、甲子園の夢はつぶれてしまう。その不幸、実はうどんを七杯もたいらげ、もどしたときにのどの血管が切れたためだった。夏の大会にも甲子園に出たのに、出場メンバーからはずされた。ヤケになって練習にも出なかった。そんなとき、河西スカウト部長と知り合いの野球部長が阪神の話をしてくれた。「そのとき、迷わず中退を決めたんです。両親も許してくれましたし、いまでも後悔はしてません。ことし入団してくるドラフトの選手とトシは同じ。それでもボクの方が先に一年、プロになじんでいるんですから…」二十二日の契約で、契約金を手にした。それは五十万円だった。年棒はちょっぴり上がって百十万円。ドラフト上位選手の足元にも及ばない。それでも西浦は気にならない、と断言する。「だって、自分で選んだ道ですから。よそ見しないで前に進むだけです」テスト生の先輩でもある山内コーチからは、「スイングが鋭くなった」と、ちょっぴりおほめのことばをもらった。からだも、この一年でひと回り大きくなった。そこで晴れて一人前のタイガースの一員に。トレーニングにも力が入る。「やっぱり、気分が違います。来年が待ち遠しいです」楽しみは二軍戦に出られるようになること。それに自分の名前の入ったメンバー表を見ることに違いない。