1975年
がっくり、鬼頭はすっかり元気をなくしている。かつては大洋の左腕のエース、五年前にはヤクルト戦でノーヒットノーランをやったのに、任意引退の手続きを終えたいま就職口がさっぱりないのだ。友人も心配していくつかのはなしはあった。が、月給三十万円だったプロ選手と同じ待遇にはほど遠い。家賃が六万円のマンションを出てもっと安いアパートに移り、なんとか「サラリーマンになりたい」と懸命にあてをさがす毎日だ。再就職はともかく、まずはアルバイトと、阪神をクビになった坂口は運送会社につとめた。デパートの贈答品を運びながらねらいは「年内就職」だ。同じ阪神の井上と大和田はアルバイトもあきらめ、ともに出かける先は自動車学校。免許をとり条件をよくしてから職さがしをしようと悲壮な決意。「東京・江戸川の実家は床屋だけど、いまさら何年もかけて理容師になるのも…」と二十六歳の大和田。みんな深刻だ。職が決まった仲間も一流会社はひとりもいない。親せきや知人が経営する中小企業ばかりだ。南海では偶然にも二人がボタン関係。杉山は東京に帰り、友人のボタン輸入販売会社で計理を担当、臼井はおじさんが社長のボタン製造工場で技術者として再スタートする。実家を継ぐのはヤクルト・市場。京都でガラス販売業の修業を始めている。南海の大塚は大阪・南で夫人がやってきたスナック経営に本腰を入れるが、これはグンと恵まれたケース。十八年間の経験を買われて神奈川テレビの解説者に内定している大洋の森中が、ことしのオフでナンバーワンの転職となりそうだ。プロのユニホームをあきらめ切れず、来春の自主トレからキャンプにかけて他チームのテストを受けるのはロッテ・東条、南海・筒井と近鉄の大場、川本、森山。だがここでも見通しは暗い。クビと同時に広島から「王キラーのワンポイント」とその特殊才能を買われて入団が決まった左腕・平岡はむしろ例外だ。あまりの不況に就職をあきらめ、これまでになかった大学進学に活路を見つけようとするものも出てきた。巨人の西村は「体操の先生になりたい」と中京大の受験準備を始めた。「経済の勉強をする」ため阪神・尾藤は東経大か愛知大に進みたいという。阪急の今増も「無理をして職につくよりも」と阪南大へ。卒業する四年後に景気が好転するという保証はなにもないというのに…。このあとまだ何人かのクビ切りがあるだろう。一千万円プレーヤーがもてはやされるかげで、夢破れた無名の選手たちにはみじめな年の暮れだ。