1963年

外人三選手をのぞいて唯一の補強選手ともいわれる山本秀一、黒木幹彦両内野手が十九日からはじまった西鉄ライオンズの自主トレーニングに参加した。山本選手は三十四年和歌山南高を卒業と同時に南海入り。1㍍75、72㌔のりっぱなからだを持つ大型内野手だけに、新人ながら鶴岡二世といわれたほどで、鶴岡監督も秀一、秀一と呼んで目をかけていた。だが、そのごやや伸び悩み、鶴岡監督も「ホークスにいて埋もれるよりも心機一転して、西鉄であばれまわっては…。豊田も去って手薄な西鉄内野陣に力を注入するためにも…」との考えから移籍されただけに、ファイトは満々。「別にこれといって抱負はないが、なくてはならない選手になりたい」と濃いマユに意志の強固さをみなぎらせていた。でも、5㌔を越すランニングなど十九日の自主トレーニングにはやばやととまどったかっこうで「こちらにくるまで家でからだをつくるためトレーニングしていたのですが少しへばりました。十八日に書いたばかりで、初日のせいかもしれません。もちろん南海のトレーニングとくらべるとはるかにライオンズのほうがきついようです。だが、これもやる気がみなぎっているせいで、ピーンとはり切った闘志というものが感じられます」といっていた。一方、黒木選手は都農高(宮崎)時代に主将、投手として四番を打ち、三十三年には九州高校野球宮崎県大会で秋、春の二回つづけて決勝戦に進出した立て役者。三十四年中日入りしたが、腰を痛めて遊撃手に転向した選手。「中日時代はまる二年間腰の痛みに苦しんだが、いまはコンディションも上上。西鉄カラーは明るく楽しい。二日前、自宅(宮崎県児湯郡都農町)から来福したばかりですが、監督さんをはじめ全員若くそのうえ同じ九州だからちーむにはすぐとけ込めます。とにかく一試合でもよい、代打でもよいので早く試合にでてやれるだけやってみたい」と第二の人生への出発に闘志をみせていた。中西監督も「有望な新人だからな。ひとつ、しっかりやってもらわなければ…」とハッパをかけていた。