1967年

サンケイアトムズが、新人選択会議で交渉権を獲得したノンプロ日本鉱業日立の簾内政雄(すのうち・まさお)投手(22)=1㍍77、74㌔、右投げ右打ち=は二十九日アトムズ入りの意思を表明した。正式契約は十二月十日ごろ、簾内投手が上京し、有楽町の球団事務所で行なわれる。サンケイが交渉権を持つ新人で、入団の意思表示をしたのは、九州工の奥宮種夫捕手についで二人目。

サンケイの小山恒希知スカウトは、同日午後四時三十分、茨城県日立市宮田町の日本鉱業日立鉱業所大雄院営業所を訪れ、簾内投手と約一時間話し合った。この結果アトムズ入り表明となった。この席には竹本高二野球部長、沢本長一監督も立ち会った。簾内投手は三十九年、秋田県・能代高から日鉱日立入り。今春の選抜東京大会では4試合全部に完投勝利をおさめ、優勝投手になるなど、上手からの重い速球が低めにコントロールされた本格派投手。サンケイは十一月九日に行なわれたドラフト会議で簾内投手を二番目に指名して交渉権をとるほどその力量を高く評価。担当の小山スカウトが四度にわたって直接交渉し、獲得に成功した。簾内は、はじめからプロ入りの意思を抱いていた。十一月九日よる、ドラフト会議でサンケイが交渉権を得たことを知って、さっそく「プロ野球でやってみたい」と語っていたほどだ。小山スカウトが日立市に簾内を訪れて初交渉したのが十四日。それから十五日間でアトムズ入りとなった。簾内の気持ちが固まったのは二十五、六日の両日。秋田県山本郡二ツ井町天神の実家で行なわれた三度目の交渉だった。空路秋田入りした小山スカウトが、簾内投手、父親・喜三郎さん(50)、母親ヨシさん(48)をまじえて二日間にわたって話し合った。このとき、スカウト仲間では無口で通っている小山スカウトのねばりに簾内投手、家族らが根負けしたような感じだった。したがって、この日、日鉱日立での話し合いはむしろあっさりと終わった。竹本野球部長、沢本監督ら会社側の了解をとりつけることに重点がおかれた。小山スカウトとの話し合いを終えた簾内投手は「一度はやってみたいと思っていたプロ野球です。まだ実感がわきませんがプロ入りの決心をしたうえは、だれにも負けないようにがんばります」と闘志いっぱいの表情。なお簾内投手は正式契約がすみ次第、東京・杉並の佼成学園のグラウンドで自主トレーニングをはじめることにしている。

簾内投手の略歴

秋田県能代高三年の三十八年に、夏の全国高校大会へ出場、エースとしてマウンドにあがったが、一回戦で岡山東商に敗れた。翌三十九年、日鉱日立に入社、持ち前の真っ向から投げおろす快速球で、すぐ第一線に起用された。その素質は早くからプロのスカウトの目にとまり、四十年秋には東京がドラフト会議にリストアップ、交渉権をとったが、プロ入りはしなかった。中央球界にクローズアップされたのはことしの春の選抜東京大会。このとき四試合全部を一人で投げまくり、日鉱日立の優勝に大きく貢献した。生まれは満州だが、すぐ日本に引き揚げ、秋田県山本郡二ツ井町天神で育った。昭和二十年五月十二日生まれの二十二歳。