こんにちは!
成田万寿美です。

1月17日
わたしにとっても忘れられない日です。
阪神淡路大震災から、18年。

あの日、私は大阪の豊中市に住んでいました。

成田万寿美 オフィシャルブログ ~一瞬で心をつかむ”笑声力”~
(これは、東京の朝です)

あの日・・・

まだ、深く眠っていた私は、
もの凄い音と、これまで体験したことのないような
上下左右に振り回させるような揺れに起こされ、
すぐには何が起ったか理解出来ませんでした。
何かが爆発したのかと思ったほどです。

その時に見た空は、真っ赤な朝焼けで、
今でも、美しいはずの朝陽を見るたび、
あの日の恐怖を思い出してしまいます。

18年も経つのに・・・

家の中は食器棚が倒れ、ガラスが飛び散り、
テレビはすぐに、神戸の街の様子を映し始めました。
横倒しのビル、飴のように曲がった高速道路、ぺちゃんこの民家、
そして大火災・・・、これは夢か!

動転しながらも、私は担当しているラジオの生放送のため、
局に向かおうと外に出ました。
でも、電車も道路も動かない、公衆電話は長蛇の列。

どうやって、放送局にたどり着いたか、想いだせないのですが、
歩いている所を、見ず知らずの人が声をかけて下さって、
途中まで車に乗せて下さったことだけは覚えています。

その後数日は、刻々と知らされる状況を伝え続けました。
日を追う毎に増え続ける、亡くなられた方の数に呆然としながら・・・

暖かいスタジオにいて、あたたかな食事することに罪悪感を持ち、
食欲もなくなっていきました。

そんな中、番組スタッフの一人も、家屋の下敷きになり亡くなりました。
多くの知人友人が、連絡つかなくなりました。

いてもたってもいられず、やっと現地に駆けつけてみると、
東京から来ているマスコミの数は半端ではなく、
はっきり言って、邪魔でしかない!と想いました。

カメラが回っていない時には、毛皮を来て、談笑している
ワイドショーのレポーターの方に、怒りを覚えましたが、
報道も、政治も、人々も、
この未曾有の出来事に平常心ではなかったと思います。

でも、このとき、本当の力になったのは、
被災地の人たちの助け合い。
現地に集まった若いボランティアの人たちの活動でした。

私たち日本人は、
自分が大変なことになっても、いえ、なった時こそ、
周りを助ける、想いやれるDNAが目覚めるのだと思いました。

あの日、局に向かって歩いている私を車に乗せて下さった方は、
連絡のつかないお母様を探しに行くとおっしゃっていました。
一緒に行って、被災地を助けるべきかどうか揺れている私に、

「あなたは、あなたの仕事で、出来ることを頑張って下さい!」
と言って、背中を押して下さった笑顔が忘れられません。

「どうか、お母様がご無事でありましたように。」
今も、この日がくると想い出します。

人は、一人では生きられないし、それは大いなる思い上がりですよね。

いざという時には、ひとりひとりの思いやりこそが、最大の力になる。
これは、神戸が、東北が、教えてくれたことでした。
私たち日本人の誇りですね。

「あなたは、自分に出来ることをして下さい!」

あの日頂いた言葉を、重く受け止め、
人との繋がりに感謝し、
今、自分に出来ることは何かを考える。

そんな生き方をして行きたいと改めて想います。


鎮魂の祈りを込めて・・・

成田万寿美