2003年7月発行の古い本です。

実際書かれたのは、もっと古く1917年(大正6年)



第一幕は物語になっていますが、浄土宗の法然と弟子の親鸞他多数の僧侶が流罪や死罪になったことも、記述されており、こういう形式の読み物も悪くないです。


浄土真宗の親鸞と天台宗の慈円(親鸞のお師匠さん?)と曹洞宗の良寛さんにで旅しているのも、面白いですね。


雪の夜に3人を家に入れてくれなかった左衛門が朝方心配になって3人を探して入れてくれた。

その時の親鸞との問答もなかなか厳しい話になっています。


第二幕は第一幕から十五年後でなんと左衛門の息子の松若が歎異抄を書いたといわれている唯円となって現れます。


親鸞は9歳から29歳までの20年間、比叡山で修行したけど、得るものがなく、そのときに法然と出会って、山をおりたことが記述されている。


歎異抄の第9章に私(=唯円)が「念仏を唱えていても強い喜びが湧いてこない。極楽のはずの浄土に行く気も起きない。どういうことか。」と問うたところ、親鸞先生は以下のようにお答えになった。

・私も同じだ。喜ぶべきものを喜べないのは煩悩のせいである。阿弥陀仏はそこまで見通して、煩悩から逃れられない凡夫こそ救ってくださる。と言った場面も出てきます。

歎異抄の第2章には関東からわざわざきた信者に対して「そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から命をかけて、この親鸞を訪ねられたお気持は、極楽に生まれる道ただ一つ、問いただす が為であろう。だがもし親鸞が、阿弥陀仏の本願のほかに、助かる道や、 秘密の法文を知っているのではなかろうかと、この親鸞をいぶかっ ての参上ならば、とんでもない誤りであり、まことにもって悲しい限りである。」と言った場面も出てきました。

第三幕は親鸞の息子の善鸞と唯円の会話があります。世間では善鸞は、放蕩な上に、浄土門の救いを信じない滅びの子と言われている。親鸞からは勘当されている。

第四幕は唯円と遊女かえでの恋物語。


第五幕は唯円の恋のもたらした波紋は大きく、僧侶どうしの葛藤が見ものです


第六幕はいよいよ親鸞臨終の時、緊張感の中で、いろいろな教えを弟子に伝える場面はすごく感激する。