育児では、子供との対話が大切だと、どの育児書にも書いてありますが、

 
最近、対話について学ぶ機会がありました。
 
そこで気づいたことは、
対話とは文字通り「対になって話す」ことであると言うこと。
 
「対」という言葉を調べると、

「そのものの軸に対して向かい合った位置に同等のものが存在する場合に、それらをまとめて言う表現である。」

 

となっている。

 

つまり、対話とは向かい合ってお互いがお互いを同等の存在として捉えながら行う会話、だといえると思います。

 

 

では、私たちは子供に対して、お互いを同等の存在として捉えながら会話をしているでしょうか?

 

 

なかなか、出来ないですよねぇ〜

 

どーしても、上からの物言いになりがちですよね〜

 

ついつい、先回りして口を出しちゃいますよね〜

 

愛ゆえの、ってやつですよね。

 

 

じゃあ、どうやったら対等な感覚を得られるでしょうか?

 

それは個々人で違うので、ぜひご自身なりのやり方を見つけていただけたらと思いますが、私なりのアイディアをご紹介させて頂きます。

 

●話すときは、同じ顔の高さを合わせる。

●子供に敢えて「さん」や「くん」をつけて呼ぶ。

●あだ名で呼んでいる人は、ちゃんと名前で呼ぶ。

●思いを伝えるときは「私はこう思うけど、〇〇はどう思う?」と聞く。

●ダメもとで頼ってみる。

 

あ、意外と大したもの思いつかなかったチュー

けど、入れたかったエッセンスはやはり「対」のイメージ。

 

親、特に母親は、子どもを自分と同一化してとらえがちですが、

対話をするには私は私、あなたはあなた、という「対」のイメージがとても大事なんだと思います。

 

私は好きにするから、あなたも好きにしなさい、的な。

 

ともすると冷たい印象を受けるかもしれませんが、

お互いを尊重し合っている大人なら普通ですよね?

 

尊重するというのは、案外そういう感じもあるのかもしれません。

ただ、浸みるような冷たさというより、サラッとした涼しさに近い感じだと個人的には思っていますが。

 

そんな感じが子供の自立を促すのかもしれませんね。

 

 

 

 

・・・あ、今思いつきました。

 

親は子供に恋をしているのかもしれませんね。

だから親の「我」が前面に出てしまうってこともありそうな気がしました。

 

子供の明るい未来は、親の明るい背中から。

「明るい背中」の樹でした。では、また。

 

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よく育児には一貫性が大事みたいなことが言われる。

でも、世の中一貫性のないものばかりなんだから、別にそこまで気にしなくていいのではないか、と思ふ。

重要なのは、
子供に愛情が伝わっていることと、
親自身が幸せなこと。

この2つが「一貫」してあればいい。

と、思ふ。

全てに一貫性を持たせようとすると、
疲れるし、窮屈。

幸せではない。
少なくとも私は。

ついつい、子供可愛さに色々こだわっちゃうけど、
一歩引いてみて親自身が幸せか確認してほしい。

親が不幸せなのに、子供だけ幸せだなんてあり得ない。

だから、こだわりを手放す
楽になって、余裕ができたエネルギーを子供に向ける。

そんな感じがいい。


少し余裕があれば、パートナーが幸せかも考えてあげよう。

両親が仲良く、幸せなら、
子供は絶対に幸せ爆笑

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〈今日見つけた3つの素晴らしいこと〉
● 秋の空気が気持ちいい
● 厚焼き卵が綺麗に出来た → 3日に一回くらい作るので大分熟練してきました
● 子供が早く寝て何時もより少し時間がある → と、思ったらカレーのルーが無くて今から買出し 苦笑


※この記事について

この記事のテーマは、「日日是好日」。

「にちにちこれこうじつ」と読む、禅語です。


その日その日の一日が最良の日だという意味です。

人は、過去の後悔や未来への憂いなどで目が曇っていて、今この瞬間を捉えることを苦手としていますガーン


本当は、その日その日で素晴らしいことが起きているんです照れ


でも、子育てに忙しいと余計にその素晴らしさを見過ごしがちです。


そうした見過ごされがちの日々の素晴らしい出来ごとに読者の方にも気づいていただきたく、このテーマの記事では私がその日で素晴らしいと思ったことをシンプルにご紹介しています。


ご参考になれば幸いですウインク


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今回は自分に劣等感を持つお父さん、お母さんに向けた内容です。

 
育児に関わる親が劣等感の悪影響を受けないように、何かしらの気付きとなれば幸いです。
 
 
親に限ったものではありませんが、誰しも程度の差はあれど劣等感を持っていると思います。
 
私も以前は内向的で、劣等感が強かった人間です。
 
小学校の学芸会では、端役というより葉役ばかりやってましたし、授業中も手を挙げられない感じでした。
 
高校くらいから内向的な感じは薄れていきましたが、劣等感を隠すために他人に厳しい毒舌キャラになっていきました。
 
そんな過去に対して後悔を強く抱いていて、それにより劣等感は強化されていたように思います。
 
 
で、
 
その劣等感ですが、マイナスイメージしかないかと思います。
 
感じたくないし、他人に悟られたくもない、妬み嫉みの原因にもなる、などなど
 
 
でも、僕らの人生から劣等感をなくしてみたらどうでしょうか?
 
劣等感が無くても、僕らは今の状態になり得ていたでしょうか?
 
少し過去を振り返ってみて下さい。
 
 
 
 
自分の未熟さに気がついて、頑張ったことありませんか?
 
負けて悔しくて、それをバネにしたことはありませんか?
 
周りに遅れをとりたくない恐れから勉強を頑張ったこと、ありませんか?
 
 
 
程度は違いますが、いずれも劣等感が関係していますよね?
 
 
 
ということは、仮に劣等感が無かったとしたら僕らの成長はかなりの割合が発生していなかったと考えられます。
 
 
そう、劣等感は成長に必要なリソース(資源)なんです!
 
これに気がついたのは、知人が主催するワークショップででしたが、結構な衝撃を受けたことを覚えています。
 
 
皆さんはどう感じますか?
 
 
なんにせよ、劣等感をリソースとしてポジティブに捉えることで、感じ方が変わるのではないでしょうか?
 
劣等感は、それそのものを感じたくないものです。
 
そのために、自分に嘘をついたり、他人を傷付けたりして背を向けますが、不幸な結果しか生み出しません。
 
ぜひ劣等感をポジティブに捉え直して、自分の味方にして下さい!
 
 
これは、子育てにも大きな影響を与えると思います。
 
子は親に習います。
劣等感まみれの親であれば、劣等感まみれの子になるでしょう。
 
その逆も然りです。

3歳になり成長著しい我が娘。

 
先日、映画館でミニオンズを観てきました。
 

娘は音に敏感で、映画やコンサートの音は大きくて怖がるのですが、この時は耳を塞ぎながらも初めて最後まで見切ることが出来ました。

 

本人も嬉しかったようで、

「〇〇、最後まで見れたよ!ママに報告しよ!」

と少し自慢げ。

 

大人にとっては大したことではないけど、彼女からしたら多分大きな挑戦で、勇気が必要なことだったのでしょう。

 

「そうだねー、ママも凄いっていうと思うよ。」

と僕が共感して言うと「うん!」とさらに嬉しそう。

 

 

と、こんな経験は皆さんもしていると思いますが、僕は何を凄いと思うかをしっかりと意識してコミニュケーションを取ることが大事だと思っています。

 

具体的には、

●映画を見れたという事実が凄いのか

●不安に駆られる環境に勇気を持って居続けるという挑戦したことが凄いのか

 

ということ。

 

前者に意識が行きがちかもしれませんが、正解は後者だと思っています。

 

理由は、子供の人格(過程)に向き合っているから。

 

そういった意味では、僕も「怖かったのによく頑張れたね」とか言えればもっと良かったのですが、その時は言葉にしそびれましたてへぺろ

 

 

 成長につれて出来ることが増えてくると、出来ることが当たり前になり、過程が埋もれがちになります。

 

そうなると、どんなに頑張ったとしても結果が失敗であった時に評価が受けられないと感じてしまい、自己肯定感を高める機会が減ってしまいます。

 

自己肯定感が高い人は挑戦する勇気が持てますが、低い子供は失敗を恐れて臆病で、卑屈なるといいます。

 

だから、私は子供のうちにチャレンジ癖をつけてもらいたくて、子供が臆病にならないように人格にフォーカスしたコミニュケーションをするように心掛けています。

 

持論ですが、人は制限さえかけなければ、誰しも可能性は無限。

 

願わくば、親の僕が重しにならないようになりたいものです照れ

 

 

子供の明るい未来は、親の明るい背中から。

「明るい背中」の樹でした。では、また。