科学史・科学教育の専門家で、たのしい授業・仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣(いたくらきよのぶ・1930年生まれ)さんの言葉を紹介します。

以下(リンク)より引用します。
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(前略)
登校拒否児の数は1975年からまた増え始めたんです。
なぜかまた1975年です。
そこで文部省はまたやっきになって,登校拒否児を減らそうと頑張りました。

はじめは「登校拒否をする子どもは,なにか本人に欠陥がある。
家庭に問題がある。家庭と本人がおかしいのだ」と考えて,家庭訪間をして「学校に来なさいよ」と励ましたりしましたが,減りませんでした。

それで,文部省は大きく方針を転換したんです。
偉いものです。
僕は変わらないと思っていたのですが,変わりました。

僕の作った諺=「発想法かるた」に,〈変わるのが社会,変わらないのが社会)というのがありますが,文部省も方針を変えたんです。
では,方針を転換して減ったかというと,減らないのですね。
「これはなんとかしなければならない」と,教員組合も,教育委員会も気になります。
普通はこういう統計数字は上下するものです。

地価のバブルの統計なんて,バーッと上がって,ばたっと落ちたりする。
1975年のころの登校拒否は1万人くらいだったかな。
現在,文部省の出している数字では,登校拒否児は7万人です。しかもこれは〈文部省に届けた数字〉です。

教育委員会などに届け出す数字は,ふつう手心を加えてありますから,実際はもっとあると思います。

これは「明るい話」ですね。
現在「右肩あがり」のすばらしい成長率を示しているのは,ポケベルと登校拒否です。

しかも,登校拒否は懸命なる努力をしても止まりません。
普通これは〈素晴らしく?! 暗い話〉として語られています。
しかし,私は明るく話します。(中略)
それなら,どういう意味で明るい話なのでしょうか。
登校拒否児はどうしてこんなに増えたのでしょうか。

どういう子どもが学校に来なくなってしまうのでしょうか。
どういう状態なのでしょうか。(中略)

嫌いなことがあれば,「嫌いだ」と言う能力がある。
嫌いなことは嫌いだと感じる能力がある。

嫌いなことは,頭ではしようと思っても身体がいうことをきかない。
身体がそうなってしまう。そういうのは,考え方によっては素晴らしいことではありませんか。
たいていの人は「嫌いなことも我慢する」という能力があるわけでしょうが,それも考え方によっては素晴らしいことです。

それなら,「嫌いなことは我慢できない」というのと,「我慢できる」というのとでは,どちらのほうが素晴らしいのでしょうか。
私より年配の人は,何かというと「今の若者はダメだ。徴兵検査を受けて兵隊に行っていないから,嫌いなものを我慢する努力がない」などと言ったものです。
これは僕より年齢が上の者のお説教の仕方です。

「今の若者はだらしない。軍隊に行って苦労していないからだめなんだ」とさんざん言ったものです。
今の大人たちは,それと同じように,「今の子どもはダメだ。ひよわですぐに登校拒否になる。今の学校の教師は,ちょっとしたことですぐに辞めてしまう」などと言います。

私自身,白分の子どもを育てて一番感動したことは,何かというと「イヤ!」と非常にはっきり言われたことだ,と言ってもいいかも知れません。
「いまの子どもは自分の意志をこんなにはっきり強く言えるのか」と驚きました。そして「僕の小さい頃にはそんなこと言えなかったんじゃないかなあ」とつくづく思いました。
これを「今の子どもは軟弱になった」と思う人もいるでしょうが,私は「いまの子どもは強くなった」と思いました。
私の場合は10人兄弟の6人目に生まれたこともあって,子どもの時から親に遠慮して,「イヤだ」などとは言えなかったですね。それで,「我が家の子どもはたくましいな」と感動したのです。

嫌いなことを「イヤだ」と言うのを,たくましいと考えるか,弱々しいと考えるか,考え方によって大きく変わりますね。
学校の先生方は「登校拒否がたくさんあることは困ることだ」と思っているに違いないですね。これは,文部省も日教組も全教も,皆一緒で,統一と団結が出来るようです。

私だけがそうは団結できないだけです。
私は「これなら教育の未来は明るいぞ」と思うのです。
この子どもたちは,「先生も学校も教育委員会も文部省も,日教組も全教もみんなけしからん。みんなで統一と団結して,ますます登校拒否をしよう」などとあからさまに主張して運動しているわけではなくて,バラバラに自分勝手でやっているだけです。
しかし,バラバラは強いですよ。

「ほかの人はどうでも自分だけは」というので,孤立を恐れないんですから。
しかも,そういう子どもがどんどんどんどん増えているんでしょ。
文部省や先生たちが団結しても手を打ちきれない。

そこで,私なんか「もうこの子どもたちに降参したらどうですか」と言うんです。
「学校をたのしくしたらいい。学校をたのしくして,行きたくなるようにすればいい」というんです。

彼らを「登校拒否」と呼ぶのだけれど,「学校へ行くのが当たり前」とどうして決めたのでしょうか? これを「学校なんか行かないのが当たり前」と考えると,ずいぶん助かるのにね。

「今日も九十何%も出席している」「今日も九十何%も学校に来た。すごいね」などと考えると,座標が全く違ってくるでしょ。(後略)
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