記憶力が良い人ほど、その記憶を元にいろいろ想像する力があると思いがちですが・・・一般的にはそうで無いという。これについて東京大学・脳科学者の池谷裕二氏の『パパは脳研究者』に面白い内容が書かれていました。

記憶は、正確すぎると実用性が低下する。いい加減で曖昧な記憶のほうが役に立つ。いろいろなものを包含して同じものとして捉える。人間の脳の本質=認知の核が分かる内容です。
(以下引用です)
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■「適当」という人間のかしこさ
 「百舌の速贄」という言葉があります。モズが捕らえた獲物を枝などに刺して保存しておく行為のことです。ところが、その獲物は放置されて、忘れ去られてしまうことがよくあります。晩秋の風物詩です。こうしたことからモズは古来、自分が取っておいたエサを忘れてしまうほど記憶力が悪いとされてきました。また、「鶏は三歩歩くと忘れる」などとも言われています。総じて「トリ頭」は「物事をすぐに 忘れてしまう」ことを指します。脳の観点から言えば、実は、そんな事実はなく、トリの記憶力はびっくりするほど正確です。

 例えば、ヒトにほんの少し歪んだ正三角形を眺めてもらい、1ヶ月後に「あのとき見た図形」を思い出して描いてもらうと、歪みのないきれいな正三角形を描きます。多少の歪みの誤差は、ヒトにとってはどうでもいいレベルで気にも留めないのです。
しかし、トリは、その微妙な差異を厳密に区別します。差があれば、別物として扱います。トリは写真に撮ったかのように風景を正確に覚えます。
実は、記憶が正確だからこそ「百舌の速贄」は忘れられてしまうのです。
(途中略)

 記憶は、正確すぎると実用性が低下します。いい加減で曖昧な記憶のほうが役に立つのです。
例えば、ある人物を覚えたいとき、「写真」のように記憶すると、ほかの角度から眺めたら別人となります。記憶には適度な「ゆるさ」がないと、他人すら認識できません。記憶は、単に正確なだけであっては役に立ちません。ゆっくりと曖昧に覚える必要があります。

 この「ゆっくり」というのも、「曖昧」に加えて、もう1つの重要な記憶の要素です。最初にある角度から見た顔を「これがAさんだ」と覚えてしまうと、ほかの角度から見たときは別人になってしまいます。そこで、「これこそがAさんだったのか」と新たな角度からの顔を即座に上書き保存してしまうと、今度は初めの顔が別人になってしまいます。これを解決する唯一の方法は「保留」です。すぐに結論に飛びつくのでなく、特定の角度から見た顔を、「これはAさんのようだ」と保留しておいて、また別の角度から見た顔も「これもAさんなのか」と認知し、保留を重ねていく。その上で、時間をかけて「両者の共通点は何か?」と、ゆっくり認知していかなければ「使える記憶」は形成されません。

■ヒトの適当な記憶力は認知の核
 一般に、記憶力のいい人ほど、想像力がない傾向があります。なぜなら、記憶力に優れた人は、隅々までをよく思い出せるため、覚えていない部分を想像で埋める必要がないから。普段から「よくわからない部分を空想で補填する」という訓練をしていないと、想像力が育たないのです。記憶力の曖昧さは、想像力の源泉です。
(途中略)

「ヘッケルの反復説」は、記憶力についても当てはまります。記憶スタイルも進化の過程をなぞるように変わっているからです。幼い子どもほど記憶力が優れているように見えるのは、誤解を恐れずに言えば「まだ進化的に初期の動物みたいなもの」だと解釈することができます。子どもは「正確な記憶」が得意。だから、まだ充分に有用性を発揮しきれない。それが成長によって、大人らしい「曖昧な記憶」に成熟していくわけです。
 ときおり「子どもは何でもすぐに覚えられてうらやましい」と言う方がおられ ますが、これは間違った考えです。残念ながら脳が未熟なために、正確な記憶しかできないだけのことなのです。

 ヒトの脳はサルとは違い、成長とともに「曖昧な記憶」をする部分が発達していきます。ひらがななどの文字の認識も、ゆるやかな記憶の賜物です。記憶が正確だと、活字体の「あ」と、手書きの「あ」を、同じ「あ」として読むことができません。特定の1種類の「あ」しか読めなかったら、困ります。そういった点からも、ヒトの適当な記憶力は私たちの認知の核となっていることがわかります。