以下抜粋
====================
子どもは突然自殺を願望するわけではあるまい。

日頃の生活ぶりの中に、生きることに希望を失ったり、ちょっとした失敗をうまく乗り越えることができなくて苦しんでしまったり、等々、ちゃんとした理由があるはずだ。その多くは、その子自身の育ちの過程で抱えた困難を、その子自身がうまく処理・解決できなかったか、周りがそれに気づいてその子の困難解決をうまく応援できなかったか、が背景にあるのだろう。いずれも子どもの育ちの過程の実際とその質の問題だ。

ここでは、そういうことを考えるために、子ども自身の生活ぶりが短期間にどう変わってきたかを探ってみることにしたい。日常に埋没するとその日常の特色が見えなくなるので、ここでは少し歴史的に子どもの生活ぶり、特に子どもにとってもっとも大事な、人生をシミュレートする活動である遊びを中心にその変遷をみてみたい。


◆「時間・空間・仲間」が失われたことだけが原因なのか
子どもが自由に遊ぶには3つの「間ま」が必要とよく言われる。

時間、空間、仲間の3つの間だ。この3つの間が失われてきたことが、子どもが次第に遊ばなくなった、遊べなくなった原因だという考えだ。子どもの育ちにとって、自由で、時に冒険的で、ダイナミックな遊びは、心も体も頭もいつのまにか鍛えてくれる自然の学校になる。それが次第になくなってしまった。塾通い等で子どもは自由な時間が奪われている。道路がすべて舗装され道ばたで子どもが遊ぶことは危険になった。少子化の上、群れて遊ぶ異年齢の集団もなくなった。この3つが、子どもたちが地域社会で遊ばなくなった原因だ。こういう説明だ。

しかし、どうだろうか。

私などは、いや、ちょっとまてよ、という気持ちになる。子どもは本当に遊びたければ、どんな小さな空間でも遊ぶだろうし、ちょっとした隙間時間でも遊ぼうとするのではないか。そこに仲間がいなくても、遊びが面白いとなれば仲間は増えていくはずだ。確かに「3つの間」の喪失は子どもの遊びの減少を説明する必要条件かもしれないが、それで十分に説明されているとは思えない。私などはそう感じる。

現代の若い世代は、自身の子ども時代に大胆で冒険的な、それでいて面白いと感じさせてくれるような昔風の遊びの体験がない人が多い。

ある保育園で遊びの大切さを学ぶ講演会を開いたが、講演が終わったあと、参加していた若い父親に園長が「お父さん、わかったでしょう。もっとお子さんと遊んであげてくださいね。遊びは本当に大事なんですから」といった。するとその父親は「いや、よくわかりましたが、うちの息子はまだちょっと無理だと思うんですよ」「え、どうして? 2歳なんだからもう十分に遊べますよ」「いやあ、ちょっと無理だと思いますけどねえ」「どうして? 十分遊べますよ」「いやあ、2歳の子にはゲームは無理ですよ」……

何のことはない、このお父さん、「遊び=ゲーム遊び」と思い込んでいたのだ。園長が聞くと子どもの頃の遊びはゲーム以外記憶にないとのこと。ゲームがものすごい勢いで広がっていた40年ほど前の話だ。昔の子どもの遊びは、映画で見るか写真で見ないかぎり、実感できない時代になっている。

昭和の子どもはどんな遊びをしていたのだろうか。

中略

当時は、今のように児童公園などはない。

あるのは道ばた、原っぱ、河原、畑、田んぼ、川原、川、あぜ道、ドブ、橋の下、空き家、場合によっては海岸等だけだ。そこで遊ぶには、そこにあるものを最大限利用して何かの遊びを創造するか、遊び道具の方を工夫してつくり出すか、いずれしかなかった。遊び道具づくりは大人に教えてもらった子どもが代々伝えていったのだと思う。そのため、子どもたちは小さな折りたたみナイフを日常的に持ち歩いていた。写真に見られる肥後守ひごのかみというナイフだ。これで枝を切り、木を削り、何でも自分でつくろうとしたのだ。

今の社会で子どもがポケットに毎日ナイフを忍ばせていたらなんといわれるだろうか。しかし少し前までは日常的に、誰もが持ち歩いていたのである。

こうした事実は何を表しているのだろうか。

実は近代の日本の産業界をになった人物の多くが、学校ではなく、こうした生活の中でも工夫や努力によってもの作りの才覚を身につけていったということが示唆されている。

松下幸之助氏は小学校4年までしか行っていないし、本田宗一郎氏の学歴も小卒だ。私の親父もレコードを作らせたらこの人の右に出る人はいないと作家五味康祐にいわせた録音技師だったが、学歴はやはり小卒だ(『芸術新潮』1973年秋号)。

元京都大学教育学部教授だった藤本浩之輔氏が明治時代に子どもだった人に聞き取って、当時の生活を再現した『明治の子ども 遊びと暮らし』(本邦書籍1986年)という興味深い本があるが、その中でも明治時代の子どもの実にダイナミックな遊びの様子が聞き書きで再現されている。

それを見ても、明治以降の日本の近代化を最も底辺で支えたのは、もの作りの工夫を尋常ならざるレヴェルで追求した職人魂の持ち主たちで、その動機、志向性は生活の中特に遊びの工夫の中で育まれたという印象が強くなる。明治期の職人たちが、日本の産業革命後に工場で職工として活躍したのであるが、その職人的な志向性は子どもの頃の遊びの中に淵源をもっている。

======================