・自然とともに生きる民は自然界を征服しようとはしない。縄文時代の民は山野と森と採取狩猟の生業の中で生きてきた。生きとし生きるものたちに同化して、同一視し続けてきました。縄文の民は決して自然を収奪や破壊対象とはしてきませんでした。
森の民であった日本民族だからこそ、山と森の結界に手を加えた里山を生活や生業の中で守り育てて活用してきました。そして里山は共同体集落の人々が守り育てて来ました。郷村集落を育んだ江戸幕府の政策の下に、里山は広く活用されていったのです。
・共同体の生業や自然界の森羅万象の荒業に育まれて、身のこなしや手先の技や工夫思考を磨いて適応してきた子供達は、集団やその課題に対する適応力も高いことは経験的にも云えたことです。幼少の子供にとって、自然の圧力に身と心を曝して大きくなることは現代でも大切なことです。

・最近の子供達は自然界の圧力から隔離され、親と学校の逃げ果せない圧力と管理下で育つしかありません。住まいは近隣と大地から隔絶された高層住宅であったり、遊び場は公共が与えた画一的な都市公園となる。草野球やボール蹴りも習い事とされて市場に組み込まれ、指導役の大人の号令下に組み込まれてしまいます。野生の中で仲間体験を育むことがとても難しくなってしまいました。

・如何すればよいのか、子供を囲い込んでしまった制度や歪められた人工的な場は、大人と社会が作り上げた制度だ。大人が取り除いて、子供を開放しなければならない。自然と仲間の中に子供達を帰してゆく、これこそ現代の大人がなすことではなかろうか。