『全国温泉人気20湯』 第9回 別府温泉・道後温泉 | 奈良の鹿たち

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『全国温泉人気20湯』 

第9回

          ● (4位) 別府温泉(べっぷ おんせん)

          ● (3位) 道後温泉 (どうご おんせん)

観光経済新聞社主催 「第37回(2023年度)にっぽんの温泉100選」

100選一覧はイントロページに

 

● (4位) 別府温泉(べっぷ おんせん)

 

別府温泉は、大分県別府市内各地に数百ある温泉の総称。

日本一の湧出量は1日約9万5728L。源泉数は約2850本。別府温泉は、源泉数・湧出量ともに日本一。

町のあちこちから湯煙が立ち上る。 共同浴場約170軒、宿は約1000軒。さらに、存在する11の泉質のうち放射能泉を除く10種類が湧く。

泉都とも呼ばれる別府市には、鶴見岳(標高1375m)とその約4㎞北にある伽藍岳(別名「硫黄山」、標高1045m)という2つの火山の東側に多数の温泉が湧き出ている。また、奇観を呈する自然湧出の源泉を観光名所化した別府地獄めぐりなど観光スポットも充実しており、別府市には毎年800万人を超える観光客が訪れる。豊かな温泉資源は観光や、市民生活だけでなく、古くは明礬の生産、近年は地熱発電、医療、花き栽培、養魚業、最近では温泉泥美容まで、様々な産業に幅広く利用されている。

特に古くから由来のある八つの温泉地は別府八湯(べっぷはっとう)と呼ばれている。

別府八湯

・別府(べっぷ)温泉

JR別府駅を中心にした繁華街に広がる交通アクセスの良い昔ながらの温泉地。温泉街は別府八湯の中では最も歓楽的な要素が強い。単純泉、二酸化炭素泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉、重曹泉、重炭酸土類泉など多数の温泉が湧いている。古くから流川の川沿いにいくつもの温泉が湧き出し、江戸時代後期の温泉番付にも登場する。明治に入ると別府湾の築港、日豊本線や別大電車の開通、掘削技術の導入等で泉源数、温泉施設・温泉宿とも増加した。さらに大正・昭和と温泉施設も充実、次第に市街地が拡大されて別府八湯の中心となる。

・浜脇(はまわき)温泉

別府温泉発祥の地で、江戸時代には港町・温泉町・門前町として陸海交通の要衝で急速に発展。朝見川の河口一帯にある温泉街で、JR東別府駅の前の海沿いに位置する。小さな共同温泉が多い。江戸時代後期に書かれた温泉番付では、西の前頭三枚目で別府温泉よりも上位にランキングされていた。泉質は、単純温泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉など。

・観海寺(かんかいじ)温泉

杉乃井ホテル

朝見川上流の山の斜面の古い街道沿いにある温泉街で、海抜150mと別府八湯のうちでも一番見晴らしが良い。泉質は、単純泉、炭酸水素塩泉、含重曹食塩泉で神経痛・リューマチに効能がある。大型リゾートホテル「杉乃井ホテル」と、室内温水プール、ボウリング場、劇場や大展望露天風呂などレジャーの殿堂となっている。地熱の利用も盛んで、照明、暖房等に活用しているホテルもある。

・堀田(ほりた)温泉

湯治場として江戸時代に開かれた静かな山の温泉である。今でも田んぼや谷あいから盛んに硫気が噴き出していて、豊富な温泉は市内に給湯されている。泉質は、弱酸性低張性高温泉、硫黄泉、含銅-鉄泉泉である。

・明礬(みょうばん)温泉

明礬(ミョウバン)

別府市街から少し離れた伽藍岳中腹の標高400mの所にある地熱地帯で、その名の通り江戸時代から質量とも全国一の明礬(湯の花)や鉱泥が採取されてきた。神経痛などに効能があるとされている。 戦後は、「別府の湯けむり・温泉地景観」の名称で国の重要文化的景観として選定されている。泉質は、含アルミニウム泉、硫黄泉、酸性硫化水素泉、緑ばん泉で神経痛やリューマチ、皮膚病に効能がある。コロイド硫黄を含んで白濁した温泉が多い。

・鉄輪(かんなわ)温泉

血の池地獄

鉄輪の街並みから空に向かって立ちのぼる無数の湯けむりは、別府を象徴する風景の1つで、「別府の湯けむり・温泉地景観」の名称で国の重要文化的景観として選定されている。湯治客は貸間旅館にある温泉の蒸気を利用した装置「地獄釜」で自炊しながら長逗留する。温泉の蒸気は部屋の暖房にも使われている。泉質も単純泉、塩化物泉、硫酸塩泉、炭酸鉄泉など多彩である。別府地獄めぐりの中心に位置している。

・柴石(しばせき)温泉

血の池地獄や龍巻地獄の一帯にある由緒ある温泉。泉質は、含鉄泉、硫酸塩泉などである。

・亀川(かめがわ)温泉

JR亀川駅すぐの海沿いにある温泉街で、泉質はナトリウム・塩化物泉である。

江戸時代には海岸に豊富な温泉が湧出し天然砂湯は亀川温泉の名物であった。又、その頃は別府の北の玄関として豊前小倉への交通の要衝でもあったため湯治場として栄えた。

 

(歴史)

1900年(明治33年)5月には、九州初で日本で5番目の開業となる路面電車「別大線」が走り、またその運行の為に日本で2番目となる火力発電所が設置され、その電力で街灯も整備されると別府の中心部流川界隈は夜も不夜城の賑わいを見せるようになる。

次第に発展を見せた別府には、駅と港の周辺に商店、劇場、芝居小屋が立ち並ぶ歓楽街が形成されたり、高温の温泉が噴出する地獄が観光施設として整備されたり、少女歌劇を売りにした鶴見園や当時珍しいケーブルカー(別府ラクテンチケーブル線)が話題を呼んだ別府遊園(現・ラクテンチ)といった遊園地なども作られたりした。一方で、豊富な温泉資源を医療や科学に活かす施設も次々に建てられた。

別府観光の父・別府の恩人といわれている油屋熊八(現在の亀の井ホテルグループの創始者)の登場により別府温泉の名は全国へと広まった。1928年(昭和3年)1月には彼のアイデアで、別府地獄めぐり遊覧バスを運行し、全国初の女性バスガイドの案内でまわる地獄めぐりは大人気と

なった。

油屋熊八

占領終了後の高度経済成長期には新婚旅行や修学旅行などで最盛期を迎えた。1950年(昭和25年)には、国際観光文化都市の第1号として国際観光温泉文化都市に指定された。1957年(昭和32年)には別府競輪場や別府タワー、鶴見岳の別府ロープウェイ、九州横断道路が開業するなど観光施設の開発も相次ぎ、宿泊施設も急激に増大していった。当時、大阪との間を結ぶ瀬戸内航路は最盛期を迎え、クルーズ客船が、新婚旅行客などを別府へと運んだ。

別府の観光客は1976年(昭和51年)をピークに既に減少に転じており、1980年代までは1200万人前後で推移したものの、1990年代のバブル崩壊後には1000万人台にまで落ち込んだ。観光客減少の原因としては、国内各地でのテーマパーク開園や海外旅行の一般化等の国民の余興と娯楽の多様化、団体旅行から個人旅行への変化等が挙げられている。

しかしながら、平成になって韓国などの日本国外からの利用客が増加した。そして、欧米からの外国人個人旅行者の受け入れを本格化する取り組みを進めている。

 

(アクセス)

・福岡方面からは大分自動車道経由東九州自動車道別府IC・県道52号利用。

・北九州方面からは東九州自動車道別府IC・県道52号または国道10号利用。

・熊本方面からはやまなみハイウェイ(県道11号)利用。

・別府国際観光港には、大阪南港からフェリー“さんふらわあ”、愛媛県八幡浜港から宇和島運輸のフェリーが就航。港から別府市中心部(北浜)まではバスで10分。

鉄道

JR別府駅(足湯)

・九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線別府駅、亀川駅、別府大学駅、東別府駅下車。

バス

・福岡空港国際線ターミナルから高速バス(とよのくに号)で2時間。

・大分空港から空港連絡バス(大分交通エアライナー)で40分。

・北九州空港から高速バス(大分交通・亀の井バスBeppu Express)で90分。

・九州横断バス(由布院、黒川温泉、阿蘇、熊本方面から)、サンライト号(長崎方面から)、別府ゆけむり号(広島方面から)、SORIN号(大阪・京都方面から)。

 

● (3位) 道後温泉 (どうご おんせん)

道後温泉は、四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。

道後温泉は約3,000年の歴史を誇る日本最古泉といわれ、日本三古湯(道後温泉、有馬温泉、白浜温泉)の一つとされている。その存在は『万葉集』にも見える。

 

(泉質)

地熱由来の非火山型の単純温泉。泉温は約20度から約55度まで18本の源泉からお湯が供給されている。各源泉から地中に埋設した送湯管で、4ヶ所の分湯場に集めたお湯を、道後温泉本館・椿の湯、周辺のホテル・旅館へ配湯している。泉質はアルカリ性単純温泉、分湯場で温度を42度前後に調整して配湯し、効能は神経痛、リウマチ・胃腸病・皮膚病・痛風・貧血などに効能がある。アルカリ性単純泉の湯質は、きめ細やかな日本人の肌にピッタリのなめらかなお湯で、湯治や美容に適している。

 

(温泉街)

道後温泉本館

道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心としている。温泉本館前から、市内電車の道後温泉駅まで、L字型に道後商店街があり、土産物店や飲食店などが軒を連ねている。

温泉本館の北から東にかけてがホテル旅館街となっている。これらの旅館群は高度成長期により広い土地を求め当地に進出したものが多く、規模の大きいものが多い。

 

(歴史)

道後温泉は、日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である。神話の昔はもちろん、史実上の記録に登場する温泉として見ても、道後温泉は日本最古級の歴史を持つ。

●古代

645年に大化の改新が行われると、伊予国の国府が置かれ、京から見て国府よりも遠い地域は「道後」(←→道前、道中)と呼ばれた。

『日本書紀』の天武13年10月(684年)の条項に「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」と見え、これは白鳳地震による地変で出湯が停止したことを示すものであり、同様の現象は宝永地震、安政南海地震、1946年南海地震でも見られ、出湯の一時停止は南海地震の特徴の一つである。

●江戸時代

・1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震により湧出が止まり、湯神社などで祈祷が行われる。翌1708年3月21日(宝永5年閏正月29日)から少しずつ湧出し始め、4月23日(3月3日)には湯筒一杯湧くようになり、5月20日(4月1日)より元のように入浴が許可される。

・1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震により湧出が止まり、祈祷が行われる。翌1855年4月8日(安政2年2月22日)から少しずつ湧出し始め、5月21日(4月6日)より元のように入浴が許可される。

●明治以降

明治23年(1890)道後初代町長、伊佐庭如矢は当時老朽化していた道後温泉本館改築に取り組みました。

また、道後への鉄道引き込みを企図し、道後鉄道株式会社を設立、一番町〜道後、道後〜三津口間に軽便鉄道を走らせたり関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展するのに貢献した。

・夏目漱石の『坊つちゃん』

正岡子規と交友のあった夏目漱石は、明治28年4月に英語教師としてこの地に赴任し、松山を舞台とした小説『坊つちやん』の中で道後温泉を取り上げている。

・『千と千尋の神隠し』のモデルとして

アニメ映画『千と千尋の神隠し』において、道後温泉本館が本作に登場する「油屋」のモデルの一つになったとされている。

 

旅館数と宿泊客の減少

2010年、松山市の道後温泉の旅館の数がこの20年間で半減し、宿泊可能人数も3割程度減っていることが報道された。「旅行需要は団体から小人数・個人に移行したが、道後温泉はバブル期前後に団体需要を踏まえた宴会場などの設備投資を進めた」と、低迷の原因を機動的な対応の遅れによるものと指摘された。道後温泉の旅館数は、1989年には58軒(収容人員9404人)だったが、2009年には31軒(同6665人)になった。しかし、2009年にフランスで発刊された日本の観光地を紹介するガイドブックで、最高ランクの「三ツ星」と評価を受けるほど、広く国内外から認められるようになった。

 

(アクセス)

予讃線JR松山駅から

 

・松山駅から伊予鉄道市内電車または坊っちゃん列車で道後温泉行き終点の道後温泉駅へ(約20分)。

・松山市駅から同じく市内電車または坊っちゃん列車で終点の道後温泉駅。伊予鉄バス道後温泉行 終点下車

松山空港から

・松山空港から、JR松山駅を経由し道後温泉駅前行きの空港リムジンバスが出ている(約40分)。

松山観光港から

・松山観光港から、リムジンバスでJR松山駅前、道後温泉駅前行 終点下車(約40分)。

車で

・松山自動車道松山ICから、国道33号、松山東部環状線経由で約8km。

高速バス

・オレンジライナーえひめ号。

・道後エクスプレスふくおか

 

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次回は、第10回(最終回)「下呂温泉・草津温泉」

 

 

(担当 G)

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