『東北の地質的景観』 第8回(最終回) 蔵王 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

『東北の地質的景観』 

第8回(最終回)

「蔵王」

 

 

 

<蔵王 位置と地形>

蔵王山は、東北地方を南北に連なる奥羽山脈の中央部にあり、宮城県と山形県の両県南部の県境に位置しています。

蔵王山は、最高峰の熊野岳(くまのだけ)(1841 m)を中心として、鳥兜山(とりかぶとやま)、五郎岳(ごろうだけ)、地蔵岳(じぞうだけ)五色岳(ごしきだけ)刈田岳(かっただけ)などの多数のピークを持つ山々の総称である。蔵王山の周辺には、およそ北〜南に連なる多数の成層火山が存在しています。蔵王山という名前の山はなく、蔵王連峰は、北北東~南南西に連なる多数の火山体の総称で、地質学的には蔵王火山と呼ばれています。蔵王火山は、玄武岩と安山岩の成層火山群であり、活火山の複合火山群です。

●御釜(おかま)(別名 五色沼)は、馬の背カルデラ内にあり、噴火口に雨水などが溜まってできた直径360mの火口湖です。約800年前に、ここからの噴火が火災丘である五色岳を生成しました。蔵王火山の1894~1897年の活動では御釜を火口に水蒸気爆発を繰り返し、1895年9月27日には噴煙柱が約350m上空にまで立ち上がったと推定されます。この時の灰白色の噴出物は五色岳~馬の背周辺一帯を覆っています。

●五色岳は、約2000年前からの火山砕屑物がカルデラ内部の噴火口の近くに堆積してできた小規模の円錐形の火砕丘(タフコーン)です。御釜が火口になったのは約800年前と推定されています。

●熊野岳(1841m)の山頂付近では、約13万年前にはじまる熊野岳の形成過程に伴う噴出物の変化を観察できます。なだらかな稜線が東西方向に伸びています。

●馬の背は、熊野岳から刈田岳の間の尾根で、今から約3.1万年前の活動で形成されました。長径約2kmの東に開口した馬蹄形をなす崩壊・浸食壁は馬の背カルデラと命名されています。しかし、その壁は山体崩壊によるカルデラ壁ではなく、火口が拡大して生成された火口壁という説が有力のようです。

(↑東北地方整備局 仙台河川国道事務所・新庄河川事務所㏋ 編集)

●刈田岳は、約22万年前の火山活動で形成された溶岩ドームで、その上を約3.5万年前以降の最新期噴出物が不整合に覆っています。

(↑刈田岳)

●ロバの耳岩は、蔵王火山の中で最も古い山体で、約100万年前の水中火砕岩(カルデラ湖内での火山活動の痕跡?)です。中央部に見える小規模の山体がロバの耳岩です。成層構造を持つ火山角礫岩~凝灰角礫岩からなります。これらは急冷構造を持つ火山弾・その破片および細粒物質からなっており、水中にマグマが噴出しそのしぶきが急冷され、水底に降り積もったものと推測されます。また、それを高角で貫く岩脈が認められます。

(↑ロバの耳)

●賽ノ磧(さいのかわら)は、刈田岳の東の裾、標高1246m付近の高原で、度重なる噴火により火山岩と火山礫が堆積し、樹木のない荒涼としたなだらかな岩原が広がっています。

約35万年~約25万年前に刈田岳付近から複数回噴出・流下してきた安山岩質溶岩が積み重なっています。その後、澄川と濁川の河川侵食により、規模の大きなV字谷が形成されています。

(↑賽ノ磧)

 

<蔵王火山の成立ち>

蔵王火山は、環太平洋火山地帯で、海洋プレートの沈み込み帯の奥に発達した火山フロント上(火山の分布の海溝側の境界線)で活動をはじめました。海洋のプレートが大陸のプレートと衝突すると、その比重の影響により海洋プレートが地球内部へ潜り込みます(沈み込み帯の形成)。その過程で、上部のマントルで部分融解等の反応を起こし、マグマが地上付近へ上昇しマグマだまりを作ります。そのマグマだまりがさらに上昇を続け、地表に噴出したものが火山フロントにおける噴火です。

東北地方では、恐竜が繁栄していた1億年以上前の中生代白亜紀頃から、現在まで断続的に火山活動が活発化しており、特に約100~60万年前以降、その活動が活発化し、50以上の火山が形成され、そのうち活火山は18もあります。 そのうちの一つが、蔵王火山です。蔵王火山の北方には約100万年前の活動で形成された瀧山、約30万年前の雁戸山(がんどさん)が、南方には約100~10万年前に形成された前山(まえやま)、烏帽子岳、杉ヶ峰、屏風岳、馬ノ神岳(まのかみだけ) 、不忘岳などからなる南蔵王火山が隣接しています。

 

 

<蔵王火山の活動>

蔵王火山の活動は、約100万年前から始まったと考えられており、活動は大きく6つに分けられます。

活動期Ⅰは約100~70万年前のもので、玄武岩質マグマの水中噴火で特徴づけられます。この時期の噴出物は山体中央部の丸山沢~五色岳の東方でみることができます。通称ロバの耳岩火山体が形成された時期です。玄武岩を主体とするこれらの岩石は、水中火砕岩(ハイアロクラスタイ)で、枕状溶岩が含まれている時もあります。当時、この付近に海水が侵入していたとする証拠はなく、おそらく蔵王山の活動に先行して巨大噴火が起こり、火口付近が窪地となり、そこに水が溜まって湖となっていたと推定されます。 そして、この湖の中からの火山活動であったと考えられます。その後の30万年間ほどは休止期でした。

活動期Ⅱは約50万年前の活動で、最北部に安山岩溶岩主体の山体が形成されました。 形成時期が古いことによる崩壊と浸食によって、山体の原形が失われています。

活動期Ⅲは約35~25万年前で、現在の熊野岳~中丸山の位置の周辺に幾つかの火口ができ、多数の安山岩質溶岩が東西両方向に流下しました。

山体の上部を形成する熊野岳が形成され、現在の山容の骨格が形成されました。

活動期Ⅳは約25~20万年前で、刈田岳火山体形成期です。刈田岳付近から多数の安山岩質溶岩が東西方向に流下しました。溶岩は最長で約10㎞流下しています。活動期 IV の期間は5万年間程度と短い。

活動期Ⅴは約13~4万年前で、熊野岳~地蔵山付近の火口からの活動です。火口から離れたところでは活動期Ⅲ・Ⅳと同様に安山岩質溶岩流が認められますが、山頂部では、噴火によって巻き上げられた大小様々な岩片や火山弾が降り積もって形成された火山砕屑岩や、火砕流によってもたらされた火山砕屑岩も多く認められます。

約7万年前には30億立方kmの大規模な山体崩壊を起こし酢川泥流を生じました。比較的爆発的活動が卓越したと推定されます。活動期 V の期間は9万年程度。

活動期Ⅵは約3.5万年前以降で、爆発的な噴火で特徴づけられます。、

約3万年前に山頂部に直径2km程のカルデラを形成し、同時に玄武岩質安山岩マグマの爆発的な活動を伴った様式に変わり、現在まで続いています。火口が御釜~五色岳付近に限定されており、五色岳は約3万年前以降の活動で生じたカルデラの中に生じた後カルデラ火砕丘で、火口湖の御釜は約2000年前から活動を続けています。被害を伴う噴火は、御釜の内外で発生し火山泥流を発生することが多い。

最新期Ⅵはさらに3つの時期に分類されます。

1.約1.3万年前まで(熊野岳、刈田岳)。

2.約9~4千年前(馬の背)。休止期を挟みながら、マグマ噴火が断続しました。

3.約2千年前以降(五色岳・御釜)に細分されます。

細分した3つの期間では、新しいほど噴火の間隔は短くなる一方で、一回の噴火フェーズの規模は小さくなっていますが、頻度は以前より多い。 約2千年前からの活動は五色岳を形成する活動です。現在の火口は五色岳西部の御釜です。形成初期には火口はより東方にあったとされ、火口が御釜に移ったのは約800年前と推定されています。それ以降の噴火は、初めに水蒸気爆発が起こりやがてマグマ噴火に移行し、そのマグマ噴火が複数回繰り返すといった推移を示しています。

記録に残る最も古い噴火は奈良時代の773年(宝亀4年)。新抄格勅符抄(しんしょうかくちょくふしょう)という法令記録に「刈田嶺神 二戸」(かったみねのかみ にこ)という言葉が出てきます。これは「刈田嶺の神に二家族分の税を差し上げる」という意味で、当時、火山は神だと信じられており、いまの蔵王連峰は刈田嶺神という神でした。噴火があるたびにその怒りを鎮めるために税を奉納していたようです。

鎌倉時代、『吾妻鑑(あづまかがみ)』に記録された1230年の噴火があり、東側の広い範囲に火山礫が降ったことが記されていますが詳細は不明です。この後、17世紀まで降灰を伴うような噴火記録は存在しませんが、14世紀には活発な噴煙活動があったことが紀行文『都のつと』⦅南北朝時代の 1350~52年 (観応年間)、諸国を放浪した宗久法師の紀行文で、都のつと(土産)としたもの⦆に記されています。江戸時代の17世紀以降、19世紀末までは数多くの噴火記録が残されています。いずれも現在の御釜が噴火口と推定される火山活動です。

また、御釜火口からの最新の噴火記録は、1894〜97年(明治27〜30年)の噴火(明治噴火)です。この噴火では、1895年2月と9月に活動の高まりがあり、山上の火口湖である御釜を噴火口とする複数回の水蒸気爆発を繰り返し、噴煙柱が約350m上空まで立ち上がったと推定されています。噴火と同時に湖水が溢れてラハール(火山砕屑物が水により流動性を持ち重力に引かれ流動する現象で、水と共に山の斜面を流れ下る現象である。土石流とも呼ばれる。)も発生しました。下流域で洪水となり、白石川、阿武隈川まで達した。降灰は、山形市街までその記録が残っています。

(↑1895年9月27日の御釜の噴火)

それ以降の1918〜28年、1939〜43年には御釜湖底からの火山ガスの噴出で御釜が白濁し、湖面が硫黄で覆われました。いずれも湖水面から火山ガスの湧出や水蒸気が上がるのが観察されたが、湖表面の水温は最大でも25℃程度であった。1940年4月には、御釜東方において噴気が増大し、新噴気孔が形成されました。

 

 

 

 

 

 

====================

『東北の地質的景観』全8回 完

 

 

(担当 G)

====================