『天文学の歴史』第3回 ケプラー・ガリレオ・ニュートン | 奈良の鹿たち

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『天文学の歴史』

第3回

「ケプラー・ガリレオ・ニュートン」

 

⦿ケプラー(Johannes Kepler、1571年~ 1630年、 ドイツ)

ケプラーは、始めは新プラトン主義に傾倒しました。彼の著述のなかに近代的な科学理論と中世的な神秘思想とが混在しているのは、この影響でした。その反面、コペルニクスやティコ、ガリレオも脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新しました。

ケプラーの大きな功績は、数学的なモデルを提出するという方法の先駆者となったことです。数学的なモデルの方法はガリレオ、ニュートンを経て古典物理学の成立へとつながっていきました。

初期のケプラーは、宇宙を「プラトンの立体」と呼ばれた正多面体5種類を組み合わせることにより惑星の配置を考えました。実に古代ギリシャ的発想であるが、ケプラーにはまだこのような思考が残っていました。

 

(ケプラーの正多面体による宇宙の構築)

1600年にティコに弟子入りをして命じられたのは、火星の観測でした。ここで、ケプラーは火星の軌道は円ではなく、太陽を焦点の一つとする楕円であることを発見しました。

ケプラー以前の天文学では「惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行する」と考えられていました。「完全なる神は、完全なる運動を造られる」と考えられていたのでした。ケプラーのこの説で、周転円の考え方は消滅しました。

ケプラーは、惑星の運動を歪んだ円もしくは楕円であるとしました(第一法則)。これにより、ようやく太陽中心説(地動説)は、従来の地球中心説(天動説)よりも単純かつ高精度のものとなり、説得力が増したのでした。太陽の引力については気づいていて、「太陽と惑星の間に、磁力のような力が存在する」と述べました。その力は、後にニュートンによって「万有引力」であるとされました。

いずれにしろ、ケプラーにとってティコの惑星の運動に関する正確な観測データは貴重でした。ティコはケプラーが訪ねて来た翌年に急逝しました。ケプラーは、ティコの死後、これらのデータを用いて、さらに惑星の運動の研究を行い、そしてついに惑星の運動に3つの法則があることを発見します。これが「ケプラーの法則」とよばれるものです。(ケプラーはティコを毒殺したのではないか?という噂が流れました)

 ケプラーは「何故、こうなるのか?」という説明はしていないが、これらをまとめた著作によって、コペルニクスの地動説に基づく宇宙観が集大成され、多くの学者が地動説を信じるようになっていきました。

そして、ニュートンの手元にそろえられ集大成されるのです。

『ケプラーの法則』

第一法則 「惑星は太陽をその1つの焦点にもつ楕円軌道の上を運動する」 というもので、惑星の軌道は完全な真円ではないことを示しています。

第二法則 「面積速度の法則」ともよばれ、「惑星と太陽を結ぶ線分が同じ時間に描く面積は等しい」 というものです。つまり、惑星は太陽に接近した時には速く動くということを意味しています。

動径長さ r 、惑星の速さ ⅴ 、動径と速度がなす角度の大きさを θ 、とします。

そうすると図の三角形の面積が面積速度を表しています。

三角形の面積の式から図の三角形の面積を求めると、

底辺 × 高さ÷2=r×(v×sinθ)÷2

面積速度一定の法則では、これが常に一定なので

 

となります。

ということは、一般に動径 r が大きいほどⅴが小さいということです。
よって、太陽の周りの楕円軌道を周回する惑星は、太陽に近づくときには速く運動し太陽から遠ざかっているときは遅く運動することがわかります。

 

第三法則 「惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定で、すべての惑星で同じである」 というものでした。

 

惑星の公転周期Pの2乗は、軌道の長半径aの3乗に比例する。

  

 

⦿ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564年~1642年 イタリア)

ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはありませんでした。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなりました。

ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れた一人です。ガリレオがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになりました。

特に木星の周りを回る4つの衛星(「ガリレオ衛星」)の存在は「地球を中心に回っていない天体がある」ということを示した点において、天動説に疑問符をつけるに値した発見と言えます。

望遠鏡を月に向けたとき、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えたが、現在ではクレータと呼ばれている)があることを発見しました。月は水晶玉のように、完璧に滑らかな球形であるとする古いアリストテレス的な考えが誤りであることが判明しました。

金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見しました。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にあることになっていました。この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずでした。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証でした。

また自分で光っているのではなく、太陽の光が反射していることが判りました。

さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測しました。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になりました。

そのほか、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見しました。これも旧来の宇宙観を覆すものでした。

また、ガリレオが発見した「慣性の法則」も、地動説を証明する有力な術となりました。

「落下物は地球も動いているので真下に落ちる。」これらの発見をもとに、ガリレオは地球が特別な存在ではなく、地動説が正しいと提唱しました。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博しました。これらの自説を、戯曲の形を借りて主張した著作が『天文対話』です。この本の中で、ガリレオはプトレマイオスとコペルニクスのそれぞれの説を、地上における潮汐作用と関連させながら論じています。内容は、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものでした。「科学においては、実験に基づいて確立された原理こそが基礎となるべきだ。」彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版しました。この本は1632年にフィレンツェで出版されましたが、すぐにキリスト教の教義にそむく可能性があるということで、ローマへの出頭命令を受けてしまいました。そして、1633年にガリレオは異端尋問を受け、地動説を捨てざるを得ませんでした。その尋問の最後に「それでも地球は回っている」とつぶやいたといわれていますが、これは後世の創作でした。

⦿ニュートン(Isaac Newton、1642年 ~1727年、イギリス)

物質の量(質量)や、慣性、運動量、力などに相当する概念を定義し、絶対的空間の概念を説明した上で、運動方程式などの運動の3法則と万有引力の法則について述べました。数学を用いて、古典力学(ニュートン力学)を創始し、これによって実験的に示された地上の物体の運動と、観測によって得られた天体の運動を統一的な理論によって説明し、予測可能である事を示しました。万有品力の法則とは、「あらゆる物質と物質の間には引力が働く」というもので、具体的には「月が地球からの距離の逆2乗に比例する引力(重力)をうけている」ということを、彼の微積分法を使って着想から20年後に発表しました。

 二つの物質の質量に比例し、距離の2乗に反比例する

 

ニュートンは、地球と天体の運動を初めて演繹的に示し、太陽系の構造について言及しました。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に説明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線などの円錐曲線になる事を示しました。

ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因・目的を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていました。例えば、アリストテレスは全ての運動(キネーシス、変化)には原因があると考えていて、等速運動を含めて運動している物体は他者に動かされており、究極的には最初の動者が存在するはずだと考えました。ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みました。また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開しました。

これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』において「われ仮説を立てず」と宣言しました。あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開しました。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされています。万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示したともされます。万有引力の法則とは、「あらゆる物質と物質にニュートン力学は形而上学的な理論に対する答えではなく、多様で広範な現象を計算可能な形で実際に予測する普遍的原理という、物理理論におけるモデルになりました。

のちの時代に、科学者らは上記のような方法論が「実証主義による近代科学の礎になった」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになりました。

これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とし、形而上学的な原因・目的論を避けました。

伝統的なヨーロッパ社会における自然観は主に、古代ギリシャ以来、アリストテレスによる、地上と天体の法則の区別があり、地上ではものは土に還る(中心に向かう)が、天体の運動の規則は不動で円・球を好むというものなどでした。実際の理論としてはプトレマイオスによる、円(周転円・離心円・エカント)のみを使って修正された天動説が受け入れられていました。しかし、コペルニクスの地動説、ティコ・ブラーエの超新星1572・彗星観察による変則的な天体活動の確認、ヨハネス・ケプラーの惑星の楕円軌道説、ガリレオによる月のクレ-タ-の観察(月が球でない事を示す)・木星の衛星観察などの諸発見により、この伝統は打破されました。そしてニュートンが地上と天体も同じ法則によって支配されており、地球が特別な存在ではなく区別がない事を示した事で、場所・時間に関係ない普遍的法則の概念に達したと見ることができます。

 

ニュートンの業績は多岐に及び、働く力に対する、物体の抵抗度合いの量である慣性質量と、物体に働く万有引力の大きさを決定する、物体固有の量が比例関係にある事を指摘しました。これにより、地上の物体の自由落下で、物体の質量に関わらず加速度が一定になる事を説明できるようになりました。

光学において光のスペクトル分析などの業績も残しました。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名です。色彩理論に関して、白色光は、それ以上分光できない単色光の混合色であり、白色光がガラスなどを通過して屈折した際に虹色になるのは、各単色光の屈折率の違いによるものであるとして、この事をプリズムを用いた実験により確かめました。光の粒子説を唱えたが、古典的な意味では誤りでした。虹の色数を7色だとしたのも彼でした。

 大阪工業大学 真貝教授

ただ、近代に入ると時間、速度、重力(引力)について宇宙や量子の世界においては、ニュートン力学では説明がつかないところまできており、代わってアインシュタインの相対性理論がすべてを支配するようになりました。地球上でのマクロ現象においては、依然ニュートン力学が生かされています。

 

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次回は 第4回「アインシュタイン」

 

 

(担当P)

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