『古墳』第11回(最終回) 四隅突出型墳丘墓 | 奈良の鹿たち

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『古墳』

第11回(最終回)

「四隅突出型墳丘墓」

(よすみとっしゅつがた ふんきゅうぼ)

 

隅突出型墳丘墓は、古墳時代の前の時期の弥生時代後半(1~3世紀)につくられた墳墓形式です。地域も山陰と北陸に限られ築造時期も短かったため、岡山の楯築墳墓とともに一般的古墳には分類されず墳丘墓と呼ばれています。四角い高まりの四隅が突き出し、墳丘墓側面傾斜には葺石や小石を貼り、裾には石を立て並べたこの墓を「四隅突出型墳丘墓」と呼んでいます。

山陰地方を中心に約90基が、北陸地方では8基が確認されています。

生まれた経緯は判明していませんが、貼り石方形墓から通路としての突出部が発展してヒトデのような形になったという説が一般的です。

この墓が青銅器文化の後、出雲文化の主役となりました。

四隅突出型墳丘墓は、ただ墳墓の一形態をあらわすのみではなく、未だ解明の進まない弥生時代後期の出雲地方の姿を物証的に示す重要な遺跡です。

弥生中期(BC100~AD50) 江の川(ごうのかわ)上流の中国山地の山あいの三次(みつぎ)盆地に四隅突出型墳丘墓につながる古い墳墓がある。小石から貼り石への構造の発展的変化がみられる。

弥生後期(AD50~180) 美作・備後の北部地域から日野川(ひのがわ)を下り、妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墓を初期墳墓にして鳥取県西部(伯耆(ほうき)地方)から島根県東部(狭義の出雲方面)に一気に広がる。に一気に広がる。すなわち、出雲地方より伯耆地方の発達時期の方が早い。

(広義の出雲は山陰地方全体を指すが、狭義の場合は出雲大社のあたりを指す)
規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していった。

弥生後期後半(AD180~分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を北陸地方、能登半島、東北などにも広げていった。
しかし丹波・但馬・若桜地方には存在しない。

弥生~古墳時代(AD250頃)弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまう。

その経時的変化を眺めると、概ね以下の様になる。
三次盆地(Ⅳ期)→伯耆・因幡(Ⅴ期1,2)→出雲(Ⅴ期2,3)→北陸(Ⅵ期)→東北(古墳前期)
そして日本海沿岸という広域で墓形が四隅突出型墳丘墓という規格化が進んでいった。

このことから、山陰〜北陸にわたる日本海沿岸の政治的勢力の同盟関係があり、中心に「出雲王国」があったとする説もある。

 

   

島根県安来市では古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されますが、四隅突出型墳丘墓の造形の延長線上に築かれたものと考えられています。実は、弥生後期には出雲の西部(出雲)と東部(安来)に分かれて2大勢力があったのですが、古墳時代になると西部の西谷墳墓群の繁栄は止まり、東部の安来では古墳時代の最初の巨大方墳として発達してゆき、この地域の首長の繁栄は奈良時代前期まで続いたと考えられています。四隅突出型墳丘墓が衰退し、前方後円(方)墳が 取って代わったということは、出雲地方にヤマト政権が及んでいったと考えられます。

山陰の四隅突出型墳墓と吉備の楯築墳丘墓が、ほぼ同時期に存在したと推測されています。西谷3号墳丘墓の埋葬施設には、吉備の楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓があり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中にも吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高坏などが大量に混入していました。

しかし、何故か吉備の墳墓には出雲の影響は見られません。

これは出雲勢力と吉備勢力の関係を示すものと考えられます。

西谷墳丘墓(にしたにふんきゅうぼ)2号墳・3号墳(島根県出雲市)

<2号墓>

方丘部は南北36m、東西24m、墳丘高4mを測り、突出部を含めた南北の平面長は約50mとなり、もはや古墳と同等の規模です。 

築造当時の姿に復元されて、墳丘の内部が展示施設にもなっています。ここでは2号墓の埋葬施設の状態を築造時の状態で再現しています。

<3号墓>

突出部を含めた平面長が南北40m以上、東西50m。

差し渡し(直径)50mを超える大形の墳丘墓で、当時の墓としては全国最大級の規模。

埋葬施設からは大陸からのガラス玉類、水銀朱などが見つかっているほか、墓上での儀礼には吉備や西瀬戸内、北近畿・北陸から持ち込まれた土器も使われている、

西谷三号墓に葬られた人物は、広範囲の有力者たちとつながっていた「出雲の王」と呼んでもよいかもしれない。

三次盆地弥生墳墓(広島県三次市)

「三次盆地は四隅突出形墳丘墓の発祥の地」といってもいいと思われる。

 三次盆地は山陽地方と山陰地方のほぼ中間に位置し、江の川(ごうのかわ)上流域で古代から交通などの内陸の中核として発展していた。ここでは旧石器時代から近世・近代に至る各時代の遺跡が数多く確認されている。(なんと『日本書紀』には素戔鳴尊(スサノウノミコト)の降臨地は江の川の上流としている。)

<順庵原(じゅうなんばら)1号墳> (島根県邑南町 おおなんちょう

三次盆地ではないが、その北西の日本海との中間の山間部。

全国で最初に発見された四隅突出型墳丘墓。

一辺が約8.3mと10.8m、高さ1mで、四角い高まりの四隅が飛び出している。墳丘墓の斜面には川原石を張りめぐらし、斜面の裾には棒状の列石(ストーンサークル)がまわしてある。この墓からは、石棺が2基、木棺1基が発掘された。少なくても3人が埋葬されていたことが分かった。また2基の石棺からは、63個のガラス製小玉と、1個の管玉が発掘された。九州地方の遺跡で出土した玉類や、中国で出土したガラスと似ていることが分かり、古代ローマからシルクロードを経て、中国より日本にもたらされた素材によって作られたものと考えられる。弥生時代後期に築造された。

<四拾貫小原(しじつかんおはら)16号墳>

弥生時代中期後葉頃には、初源的な形態を持つと考えられる方形貼石墓が認められ、墳丘墓が中国地方山間部の中でも三次盆地地域において先行的に発達していたことを想定できる。

陣山墳墓群(じんやまふんぼぐん)

1~5号の5基とも石の並べ方などが違っており定型化していない墳墓形態で、後の四隅突出型墳丘墓への発生段階の墳墓。

<宗祐池西(むねすけいけにし)1号墳>

1世紀初めに築造されたと考えられている。

長方形の形をした方形の四隅がほんの少しとがっている。

<矢谷MD1号墓>

特殊器台・壺が出土した前方後方形の墳丘をもつでは四隅突出型墳丘墓という在地的な墳形選択を踏襲しながら、吉備地域や山陰地方の影響を受ける遺物が出現しており、地域間交流を検討するための資料が蓄積されている。

洞の原墳丘墓(ほらのはらふんきゅうぼ)(鳥取県大山町)

最初に造られた王の墓(洞ノ原2号墓:下の画像)は、四隅が突出していませんでしたが、続く二代目の王の墓(洞ノ原1号墓)で初めて四隅突出型墳丘墓が出現し、以後、次々と造られていきました。
妻木晩田遺跡が最も栄えた約1800年前には、出雲市の西谷3号墓のような長さ50mを越える巨大な四隅突出型墳丘墓も出現します。しかし、妻木晩田遺跡ではこの時期の墓はなぜか見つかっていません。妻木晩田遺跡最大の謎です。
古墳時代の始まりとともに四隅突出型墳丘墓は姿を消し、新しい時代の首長の墓として前方後円墳が広く全国に見られるようになります。妻木晩田遺跡にも晩田山(ばんだやま)3号墓などの前方後円墳が築かれています。<洞ノ原墳丘墓 案内板から>

●小羽山墳丘墓(こばやまふんきゅうぼ)30号墓(福井県清水町)

長さ27m・高さ2.7m

弥生時代後期中頃の2世紀初頭と考えられている。北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓。

館ノ内墳丘墓(たてのうちふんきゅうぼ)1号墓(福島県喜多方市)

北陸から離れ、突如として東北にあらわれた最北端の四隅突出墳丘墓。

長さ 9m×8.7m。

 

 

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『古墳』 全11回  完

 

 

 (担当 H)

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