『おくのほそ道』
イントロ
「おくのほそ道」について
東北は「おくのほそ道」というすばらしい文学作品を生み出したかけがえのない地域なのです。
(奥の細道行脚の図 与謝蕪村筆)
(「おくのほそ道」全行程)
「おくのほそ道」(「奥の細道」)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる元禄2年3月27日(1689年5月16日)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡り同年8月20日過ぎに大垣へ着くまでの紀行作品である。芭蕉46歳の旅立ちで、全行程約600里(2,400km)、日数約150日間(5ヶ月)にも及ぶ長旅である。1日に30km~40km歩く日もありました。「おくのほそ道」旅のむすびの地 美濃大垣を元禄4年9月6日に出発し、江戸に戻ったのは10月末である。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、江戸深川にあった芭蕉の草庵を出発し、船で千住に渡り、日光街道の草加、日光から下野国の城下町黒羽へ行く。ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、この旅のあこがれの地 松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句が収載されている。平泉は、「おくのほそ道」の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入った。山寺(立石寺)に立寄り、日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山のひとつである月山にも登り、6月半ばに「おくのほそ道」の最北の地となった象潟に到達する。ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路の大垣をむすびの地として最後の句を詠み、しばらく滞在して江戸に戻った。
旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。また旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や「おくのほそ道」に大きな影響をもたらす。
旅の後,芭蕉は足かけ5年をかけ,元禄7年(1694年)に紀行文を完成させた。作品が出版されたのは,芭蕉の死後8年目、元禄15年(1702年)のことであった。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。「おくのほそ道」は「曾良旅日記」と相違があり、芭蕉は単なる紀行文ではなく推敲を重ねた文芸作品として執筆している。和漢混交文の格調高い文章でまとめられ、芭蕉の紀行文としては最も長編で、かつ質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。
芭蕉自筆本、素龍清書本、曾良や去来へ伝えられた本があり、去来の本を元に刊行された版本がある。
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次回は 第1回 「序章」
(担当 H)
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