「光る君へ」ー道長の金峯山詣と弥勒信仰 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 

久しぶりに「光る君へ」周辺のことを書いてみようかなと思います

 

このドラマ、初めのころの「ミチカネ」事件でびっくり仰天し、

道長とまひろの「ただならぬ関係」にドン引きしてしまいました

 

それでも怖いもの見たさで視聴を続けておりますが、

最近はなかなか話の筋も(多少強引なところもある気がしないでもないけど)面白く、

なんといっても宮中の華やかさを人が動くドラマで見せてもらえるのは眼福だなあと思っております

 

そこで久しぶりにドラマのことを書こうと思い立ちましたが、取り上げるのは道長の金峯山詣です

 

金峯山詣については、道長自身が御堂関白記に記録を残しています

このブログでは、御堂関白記に沿って金峯山詣の行程を辿ったり、

道長が穴を掘って埋めていた経筒と道長の弥勒信仰についても、サラッと書いてみようと思います

 

…ところで、今ふと思ったのだけど、金峯山に行く道々で毎日きちんと日記など書けないだろうから、一連の記事は帰宅後でまとめて書いたんでしょうね

→小学生の私が夏休みの日記をサボってまとめて書いたのと同じじゃん?(そんなことありません)

 

 

 

  金峯山詣の行程

ドラマを見てから「御堂関白記」を開くと、いろいろなシーンが再現されていることがわかります

 

↓伊周が持っていた地図

 

 御堂関白記の記録に沿って、行程を辿りましょう

(下の方に御堂関白記の現代語訳を貼ってみますので、そちらもご覧ください)

 

寛弘4年(1007)

閏5月17日 「金峯山詣長斎始」 

室町の源高雅(中宮亮)宅で長斎開始

 お仲間は、源俊賢(F4)、藤原頼通(道長の息子)を含む「17,8人」でした

(源俊賢と頼通は、ドラマでも一緒に金峯山に登ってました)

 内裏の法華経講読と読経に参り、朝座が開かれましたが、その時の講師は「定澄」、問人は「明尊」

風船ここで脱線(おい)…

「定澄」はドラマの中で道長に押し掛けてきた興福寺の僧です

「明尊」天台(寺門派)のお坊さんで、天台の山門・寺門の争いの激しい時に天台座主になった人ですが、山門派(円仁派)により2度も天台座主を引きずり降ろされ(汗)、のち園城寺長吏頼通の篤い帰依により平等院検校になる人です

 

しかーし、ドラマでは今の所、天台関係は一切でてこない(悲)

この定澄と明尊は御堂関白記では仲良く(ないかもしれないけど)法会等によく名を連ねています

(ドラマでは、天台がそもそも描かれないので今後も出てこないんだろうけど…)

         

8月2日 「金峯山に出立」

丑時(午前1時~3時)出立 一条天皇の物忌みを押して出立しました(道長の想いが勝ったということか?)

・中御門大路から西→大宮大路を南に折れる→二丈大路を進む→朱雀門大路

・朱雀門の前の礼橋の下で解除

・羅城門→鴨川尻で乗舟 ここで辰刻(午前7時~9時)

・石清水八幡宮 奉幣(午刻(午前11時~午後1時)

・身主渡で木津川を東へ

・内記堂という処で宿

 

8月3日 「大安寺宿」

大安寺の扶公が食事と宿泊の準備をしたが、大安寺は宿所が華美で金峯山詣にふさわしくないため南中門の東腋に宿した(そのままいればよいものを…)

 

 

 

 

 

8月4日「井外堂宿」 一日中、雨雨

井外堂に宿した

(この井外堂というのは、現在の奈良県天理市にある妙観寺に当たるとされているようです)

 

↓素敵な妙観寺の場所音譜 

道長は古墳とか三輪山とかに目もくれなかったのかしら?(もったいない)

 

 

8月5日 軽寺宿  一日中、雨雨

「軽」は、現在は奈良県橿原市の「大軽」で、

「軽寺」は、法輪寺だそうです

 

もともと「軽」は奈良盆地を南北に走る「下ツ道」と東西に走る「山田道」の交差点で、古代から栄えた交通の要衝です

 

柿本人麻呂が「泣血哀慟歌」(巻2ー207)で「天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば…」と長~い長歌を歌った場所です

 

↓軽寺跡(法輪寺) 道長は飛鳥の観光しなかったのかな?(するわけないでしょ)

私なら、甘樫丘経由で行きますけど?(しつこい)

 

8月6日 壷阪寺宿  晴れ晴れ

道長は、飛鳥の観光などせず(まだ言ってる…)、壷阪寺に泊まったようです

 

↓当時の姿を全く伝えていない壷阪寺(私がおととしの春に撮影した壷阪寺の写真です)

こんなでかい仏像はいなかったでしょうが、桜がきれいだったので載せちゃいます

 

 

↓道長に関係ないけど、二上山が遠くに見えています

 

 

 

 

 

8月7日 雨

観覚寺→現光寺(世尊寺)→野極(宿)

 

・観覚寺

観覚寺はネットで調べたところ、どうやら現在の子嶋寺らしく、グーグルマップでもその付近に「観覚寺遺跡」なるものも出てくるのですが…

 

!!ここで一つ、疑問が生じてしまった滝汗

 

前日に泊まった壷阪寺からみて観覚寺は、吉野とは逆方向(北)になるのです

つまり、道長たちは、前日来た道を引き返して子嶋寺に行ったことになる!

 

↓地図で見てください 壷阪寺までせっかく進んだのに、また引き返して子嶋寺へ(壷阪寺は山にあるので、再度上り道となるはずなのに…)

 

私なら、わざわざ引き返すことはしないけど、なぜ道長は引き返したのだろう?(そもそも観覚寺は子嶋寺ではないのかしら?)

 

→一つ考えられるのは、子島曼荼羅(国宝)の存在です

子島曼荼羅は、あの一条天皇が子嶋寺に賜ったものです

ひょっとして、道長は「あ!しまった!観覚寺に寄るのを忘れちゃった汗あそこには、一条天皇が賜った子島曼荼羅があるんだった!あの曼荼羅を拝むのを忘れてしまっては、京都に帰ってから一条天皇にあわせる顔がないぞ!やべー!!💦」と思って、引き返したんじゃないでしょうか?(あくまでも思いつきですが、皆さんどう思います?)

 

!ちなみに、この点について、今思いついて京博の図録解説を見たところ、こう書いてありました

「七日は雨。いちど道を引き返すように山を降り、観覚寺、すなわち現在の子島寺に参拝している。…先年一条帝の病気平癒の功によって製作された両界曼荼羅が納められていた。これが現存する子島曼荼羅であると伝えられている。深い理由があっての逆戻りなのであろう。この観覚寺では沐浴も行っている。…」

ちょ、待てよ!

だから、その「深い理由」が知りたいんじゃ!

そこを書いてほしかった!!

何故、わざわざ山道を引き返したのか??

やっぱり、道長の「うっかりド忘れ説」があってるんじゃない?(知らんけど)

 

 

子島曼荼羅(胎蔵界)

 

 

小島曼荼羅の説明

国宝 子島曼荼羅 | 奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)

 

 

・現光寺(世尊寺)

一行は、はるばる子嶋寺に戻ったあと、こんどは現光寺(世尊寺)に行っています

 

↓これは遠いぞ!

壷阪寺から世尊寺に直接行くとしても遠いのに、子嶋寺に戻ってから行くなんて、かなり無理な話じゃない?

あ!もしかして、(小学生の頃の私の夏休みの日記のように)日記を後からまとめて書いたので、道長さんも書く順番を間違えちゃったとか?(これ、結構当たってる気がする←気のせいです)

 

・野極

この日は「野極」で泊まったようですが、どこだかわかりません

ネットで調べたところ、金峯山の周辺かという説明をみました

 

↓伊周の地図にある「野極」も吉野川の向こう

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↓世尊寺から吉野は吉野川を渡るだけに見えるけど、

起伏激しくてきっと大変だと思う

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8月8日 一日中、雨雨

この日も「野極」に宿しました

一日中雨だったためでしょうか

きっといい骨休めになったでしょう

 

 

8月9日 時々、雨雨

寺祇園に宿した(どこだか不明)

宝塔で昼飯

 

 

8月10日 時々、雨雨  金峯山に到着しました\(^o^)/

 

道長 必死の岩登り

 

 

頼通 後ろから岩場を上ってくる源俊賢を気遣う
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源俊賢 ぎゃおーん、落ちる~汗汗ゲッソリ
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てな感じ?で
 

一行は、

蔵王権現御在所僧房金照の房(山上ヶ岳)に到着

 

午刻(午前11時~午後1時)に沐浴、解除

 

その後、

子守三所に参上(中宮彰子に子を授かることを祈る)

金銀五色の絹の幣、紙の御幣、紙、米を献上 

 

御法社にも同じく献上

三十八所に詣でる

蔵王権現御在所で綱二十筋、「細きぬがさ」十流献上

経供養 

・法華経百部、仁王経□部(三十八所の神々のため)  

・理趣分八巻(一条天皇、冷泉院、中宮彰子、東宮居貞親王のため)

・般若心経百十巻(八代竜王のため) などなど

道長自身が先年(長徳4年)に書いた金泥法華経一部

・今回道長が書いた弥勒経三巻、阿弥陀経、般若心経を同行僧七口(講師覚運大僧都、呪願師定澄大僧都、読師扶公法橋、三礼明尊…)をもって供養

・これらの経は、蔵王権現御在所に金銅の燈篭を立て、その下に埋納し、常燈を供す

などなど

 

春日権大夫(頼通)も経を供養

女方(にょうぼう)(倫子)の経十部も供養

道長の御燈明百万燈を供養

 

 

経筒

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神妙な道長

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頼通(イケメンでよかった)

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埋納します

読経の中、掘った穴に道長自ら入り

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経筒を大事に穴に入れる

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慎重に

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壺を逆さにして経筒を覆う

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読経

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一件落着

 

 

この後、一行は

金照の房に戻り、夜下山、寺祇園に宿す

 

で…

帰路についても、ざっとした記録がありますが、無事に帰ったようです

 

ドラマで、伊周が待ち伏せして道長を襲おうとするシーンがありましたが、『小右記』にはそんな噂も書かれていたようです

 

 

↓道長の金峯山詣について『御堂関白記』(講談社学術文庫、「御堂関白記」上)

 

 

往路略図

往路略図2
(京都国立博物館図録「藤原道長 金峯山埋経一千年記念 特別展覧会 極めた栄華・願った浄土」展図録 2007)

 

 

 

  道長の金峯山信仰

金峯山は大和国大峰山脈北方、吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称です

役小角が籠っていた際に蔵王権現が姿を現し、修験道の行われた地です

平安時代には聖宝が金峯山寺の参詣道を整備し、皇族・貴族が頻繁に参詣するようになりました

 

宇多天皇が900年に参詣し、

なんと「まひろ」の夫藤原宣孝も990年に金峯山詣(=御嶽詣)をしています(そんなシーンがありましたよね)

 

道長が金峯山詣をしたのは、41歳の厄年の翌年寛弘4年(1007)

その目的は、ドラマにあったように娘であり一条天皇の中宮である彰子の懐妊という現世的なものに加え、死後には極楽へ行き弥勒下生を待ち、成仏したいという来世的な願いの成就もありました

 

この時代、末法思想の流行の中、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいという願いが、天台宗を中心に大流行し、源信は極楽往生の為の具体的な方法を説いた『往生要集』を著しています(寛和元年、985年)

道長は藤原行成に『往生要集』等の書写をさせています(彼は字が上手だからねー)

 

道長は同時に、阿弥陀仏だけでなく弥勒仏を信仰していました

弥勒に対する信仰には、・弥勒上生信仰と・弥勒下生信仰の二つがあります

このうち、・弥勒上生信仰は、『岩波仏教辞典』によれば、「弥勒菩薩が常住説法している兜率天へ往生しようという弥勒上生経に基づく信仰」であるとあります

また、・弥勒下生信仰は、「弥勒上生に対して、弥勒が釈迦入滅後の56憶7千万年後に婆羅門の家に再誕し、…未だ救済されざる仏弟子をことごとく救う」と説明されています

 

道長は、この弥勒下生信仰に基づき、56億7千万年後に経典を護持しようとして経筒を土中に埋納したわけです(まるでタイムカプセルじゃー)

 

ドラマで再現されていた経筒は(割と頻繁に博物館等で展示されるので、私は何度も現物を見ています)、表面に願文が刻印されていて、その内容は「法華信仰と蔵王権現信仰に基づいて極楽往生と釈迦についで仏となる弥勒菩薩(慈氏、慈尊)の出世に」あおうとするものであったそうです(京博、図録解説)

 

 

実際の経筒

「金銅藤原道長経筒」奈良・金峯山神社

 

「寛弘四年」

「大日本国左大臣正二位藤原」とはっきり読み取れる

 

経筒左側面

 

背面

 

右側面

 

 

底面、底面拓本

 

経筒表面に描かれた願文は、①②③の三つに分かれます

①経筒を埋納する経緯

「大日本国左大臣正二位藤原道長は、寛弘四年秋八月に自ら写経した法華経など十五巻をこの経筒(銅筺)に納め金峯山頂に埋めて、その上に金銅の灯楼を立てて常灯をともし、今日から開始して弥勒下生の時(龍華の晨)まで待つ」

 

②それぞれの経巻の書写の経緯と目的

法華経八巻の書写の目的は、「釈迦の恩に報いるため、また弥勒に知遇し、蔵王権現に親近するため、そして自分の無上菩提のため」「初心を貫徹し、もともとの志を遂げるため」

阿弥陀経の目的は、「自分の臨終にあたって心身散乱せず、弥陀尊を念じて極楽世界への往生を遂げるため」

弥勒経の目的は、「慈尊(=弥勒菩薩)出世」の時(56億7千万年後)、極楽世界から自分がその場に往って弥勒に会い、法華会を聴聞し、ここ金峯山に埋めた自らの経巻が自然に「湧出」してその場に参集した衆生を随喜させたい

 

③釈迦と蔵王権現に美辞麗句を用いて願意をささげる

 

 

 

  こののちの道長

金峯山詣の翌年、寛弘5年(1008)に中宮彰子は懐妊します

彰子はたくさん子どもを産み、道長は天皇の外戚としての地位を築いていくことになります

 

まひろの残した詳しい記録がドラマにも生きることとなりそうですね

 

 

とりあえず、彰子ちゃん、よかったね

 

「これにて一件落着ビックリマーク」(遠山の金さん風に)

 

「でめたし、でめたし音符」(クレヨンしんちゃん風に)

 

 

チューリップ紫チューリップオレンジチューリップピンク

 

参考図書

藤原道長『御堂関白記』上 全現代語訳倉本一宏 講談社学術文庫

山中裕 『人物叢書 藤原道長』吉川弘文館

『藤原道長 金峯山埋経一千年記念 特別展覧会 極めた栄華・願った浄土』京都国立博物館

大津透・池田尚隆編『藤原道長事典 御堂関白記からみる貴族社会』思文閣出版