この一週間のうちに、
奈良博「空海ー密教のルーツとマンダラ世界」展と、
京博「雪舟伝説」展
そして、トーハク「法然と極楽浄土」展
をハシゴしました
ついでに、千葉県銚子市の叔母の法事にも行きました
まさに、右往左往
奈良博「空海」展
京博「雪舟伝説」展
トーハク「法然と極楽浄土」展
それぞれ見ごたえのある展覧会でしたが、自分の興味からいうと、奈良博とトーハクの展示が面白かったです
今回は、トーハクの展示の中から、綴織当麻曼荼羅について書きたいと思います
その前に、この場を借りて、自分の話を少しだけします
令和6年度も、昨年度に引き続き大学の研究員に採用されました(わーい)
取り組むテーマは、引き続き(しつこく)、
平安時代中期以降の仏教美術の(エセ)研究(もどき)です
それから、もう一つ、
ついでの話ですが、
先々週あたりまで大河ドラマ「光る君へ」について逐次記事を書いていたのですが、
最近、じっくりと向き合う時間が取りづらくなってきてしまいました
なので、今後は書きたい時に、ドラマに関連する内容を書こうかなと思っています
時間がとりづらくなったということに加えて、
ドラマを追うことに少し疲れてしまったという理由もあります
まひろと道長の「恋愛」に勝手に疲れてしまったということもあるし、
私の一番のお気に入りのミチカネ(大河ドラマ的冤罪の被害者)の頬がどんどんこけていくのを見るのもつらくて疲れてしまいました(はて、いつからミチカネがお気に入りになったかって?…私にもわからん)
…というような理由で、毎回内容を追いかけることはやめて、
普段、自分が研究(もどき)するなかで、関連する面白い内容があったら、
それを中心に時々書こうかななんて思っています
もしも「光る君へ」の記事を毎回楽しみにしていた方がいらっしゃったら(そんな人はいないだろう)、申し訳ありません🙏
本題に入ります
トーハクの今回の特別展は、法然に焦点をあてた展示でした
↓知恩院の早来迎のチラシ
私の関心は、法然というよりは、
当麻曼荼羅、源信著『往生要集』、各種阿弥陀来迎図にありました
展示の目玉は
修復後初めて奈良県外に出たという奈良当麻寺の国宝 綴織当麻曼荼羅(8世紀)
↓部分
それから、
修復後初めて公開された
京都知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)(14世紀)
それから知恩院の法然上人絵伝(14世紀)
(上の写真は公式HPから)
この中から、私がピックアップしたいのは
も・ち・ろ・ん
綴織当麻曼荼羅です
当麻寺曼荼羅堂の3つの当麻曼荼羅
当麻曼荼羅は私の大好物なので(ヘンタイ)、これまでも何回も何回もしつこくブログに書いてきました
その中から、2年前に奈良博で「綴織当麻曼荼羅」の修復後、初めての展示があった時のブログの記事を引用します
引用箇所は、当麻寺の曼荼羅堂に懸けられる三つの当麻曼荼羅について書いたところです
(以下、過去記事からの引用、過去記事のリンクも貼りますので、是非お読みください)
↓↓↓
3つの当麻曼荼羅
奈良県当麻寺に所蔵される当麻曼荼羅には同寸(4メートル四方)のものが3つあります
古い順に列挙すると、
まず、
❶国宝綴織当麻曼荼羅(根本曼荼羅)(唐または奈良時代、8世紀)が初めにあげられます
この曼荼羅は、仁治三年(1242)には板張曼荼羅に改装され、後年に現状の掛輻となったといわれています(その過程で、印紙曼荼羅、裏板曼荼羅が誕生しましたがここでは触れません)
板張曼荼羅から転写されたのが
❷文亀本(室町時代、永正二年(1505))
と呼ばれるものです
鎌倉時代以降には、当麻曼荼羅の転写が盛んになりましたが、この曼荼羅もその一つです
さらに、江戸時代の転写とされる
❸貞享本(江戸時代、貞享三年(1686))
があります
2022年の奈良博の展示は、この貞享本の修理完成の展示です
↓この記事から引用しました
修復後初めて奈良県から外に出た綴織当麻曼荼羅
2024年(今回)、東京国立博物館に展示されているのは、上の❶の国宝綴織当麻曼荼羅です
修復後、2年前に奈良博で展示されましたが、
奈良県を出るのは、今回が初めて(大歓迎)
トーハクでお目にかかった綴織当麻曼荼羅は、奈良博での展示よりもハッキリ見えました
今回の展示につけられた説明で初めて知ったのですが、綴織当麻曼荼羅は、
1677年の修復時に描画による補筆が加わったんだそうです(ちょっとショック)
上の❶のところで書いた、「後年に現状の掛幅となった」のが1677年の修理を指し、この時加筆されたそうです
今回、ハッキリ見えたのは、
トーハクの照明が明るかった(たぶん)だけでなく、織物の上に筆で絵が書き加えられていたから、
そしてそれをさらに修復したからなんじゃないかと思います
2年前、奈良博での修復後の展示は、
おそらくトーハクより照明が暗かったのでしょう、はじめよく見えなかったのです
ところが、しばらくの凝視の後、一瞬で絵が立ち上がるように見え感動しました
あの時、立ち上がるように絵が見えたのも、たぶん、加筆されていたからなんでしょう(やっぱりショック)
もっとも、修復前(当麻寺と奈良博どちらでも拝見したことがあります)は、
真っ黒で何にも見えなかったし、
特に奈良博では光が当たって、かえって横シワばかりが目立ったのでした
(真っ黒で横シワって、顔だったらヤバいよね)
よくあそこまで修復していただいたものだと感動しています
綴織当麻曼荼羅の生産地~国産説と舶載説
綴織当麻曼荼羅の伝来については、国産説と、唐からの舶載説があります
過去の図録等を見る限り舶載説が有力のようですが、
そうであるならば、
どうやって日本に運んできたの?
というところが気になります
もちろん、遣唐使船に乗せたんでしょうが、
4メートル四方の織物って、
絨毯を想像すると場所をとりますよね?
↓遣唐使船とせんとくん
遣唐使船には、
乗組員はもちろん、たくさんの経典や文物も乗っていたでしょう
それらとともに、絨毯のようなものを運ぶとしたら、どうやって積み込んだのでしょう?
折ったの?(折りにくそう)
丸めたの?(邪魔になりそう)
もう一つ、わからないことがあります
日本についてから、
どのようなご縁で当麻寺に来たんですか?
当麻寺に来た経緯はわからないようですが、
当麻寺に来た後の経緯は、ある程度わかっているようです
奈良時代から鎌倉時代まで、人知れず保管されていたようなのです
鎌倉時代になると、たまたま浄土宗西山派の証空が発見し、びっくりポン!
そこから、当麻曼荼羅の図柄はコピーされ、
一気に広がったのです
全国のいろいろなところに当麻曼荼羅が広がったのはいいとして、
やはり疑問に思うのは、初めの一歩、つまり唐からの運搬方法です
舶載説をとる研究者の方に、運搬方法をおたずねしたこともあります
…とーこーろーがー、
その先生の答えを忘れてしましました
(大ボケ)
折ったのか、丸めたのか、いくら考えても思い出せない
まさか、帆船の帆にしたなんてことはないだろう
想像図↓んな、バカな…
(いらすとや)
綴織当麻曼荼羅に左右対称に入る「縦の線」はなんだろう?
運搬方法と関係するかどうか不明なのですが、
今回、当麻曼荼羅を見て気になったことがありました
それは、
当麻曼荼羅の縦方向に顕著に数本の線があることに気づいたんです
イメージとしては、絨毯にハゲた部分が線状に入っているという感じ
↓阿弥陀如来の両側に縦に折り目のような線が入っています(トーハクの展示でよく見えます)
この縦の線、曼荼羅自体に数本入っていました
そこに、「規則性」を感じました
例によって、私のいい加減なメモしかないのが残念なのですが😱
↓縦の線はこのようにはいっていました入っていました
上の図の中の「阿」は阿弥陀如来、「観」は観音菩薩、「勢」は勢至菩薩、「菩」は菩薩像のが描かれた場所を示したつもりです
(わかって~)
実線はハッキリとハゲが見えた線、点線はそれほどはっきり見えなかった線です
向かって左側の2本の線は、それほどハゲていませんでした(言い方よ)
↓当麻曼荼羅の略図に重ねてみます
(『日本の美術12 浄土教画』至文堂の図をもとに加筆しました)
阿弥陀如来は真ん中の一番大きい像、観音菩薩は阿弥陀の左隣(向かって右)、勢至菩薩は阿弥陀の右隣(向かって左)、
そのほかにたくさんの菩薩たちがいて、阿弥陀如来を讃嘆しています
何が言いたいかというと、
綴織当麻曼荼羅のハゲた線は、明らかに真ん中の阿弥陀如来像や脇侍の観音・勢至菩薩の顔を避けて左右対称に入っていたということです
↓もう一度
阿弥陀如来や観音・勢至菩薩の顔を避けて、縦の折り線が入っている
ところが、阿弥陀三尊像の外側の右側の部分(向かって左側の部分)
図でいうと、C‘、D‘の部分の線はハッキリ見えませんでした
対称となる、CとDの線はハッキリしているにもかかわらずです
何故だ
このことについて、上の舶載説と絡めて考えてみました
もし万が一、これらの縦の線が
「唐から遣唐使船で折りたたまれて運ばれた時の線」の名残りだとすると、
阿弥陀如来と脇侍2体の顔を損なわないように折り曲げた工夫の後が、このような線として残っているのではないでしょうか?
さらに、
C‘、D‘の線がはっきり見えないのは、折り曲げた際に一番外側になったために、折り目が甘くなったためではないかと思うのです
つまり、極楽浄土にいらっしゃる大事な阿弥陀三尊像を損なわないよう、その部分だけは平らをキープするように折り曲げた(折り曲げながら巻いたのかも)ためA-A`,B-B`の線は残ったが、一番外側になったところは綴織の厚みのために(厚手の絨毯を折り曲げることを想像してみてください)、線が残るほどに折ることはできなかった、ということではないでしょうか
そして、遣唐使船に慎重に収納し、
大事に大事に日本に運んだのではないでしょうか?
日本に到着したのち、最終的に当麻寺に辿り着き、
中将姫伝説と結びついたり、浄土宗に「発見」されたりと数奇な運命を辿り、
最近では平成時代に修理され、
令和の今日、東京進出…という半生を送ったのではないでしょうか?
ということは、次は世界進出でしょうかね?
その時は、飛行機に乗せてあげたいですね(テキトー)
この折り目についての話は、あくまで、この線が遣唐使船に乗せるほど古い時代の名残りだとすれば…という話です
その後の時代の保管や移動の時についてしまった線であるならば、そもそも違うことになりますが(そっちの可能性が大きいとも思うけど)、
それでも、
阿弥陀三尊像の顔が傷つかないように大事に扱われていたことだけは、
動かない真実だと思います
トーハクでは
当麻寺奥之院からお見えになった川中副住職が「当麻曼荼羅」の絵解きをしてくださいました(予約制)
もう10年以上も前になりますが、奈良大学(通信制)の課外授業で奈良市の徳融寺で初めて当麻曼荼羅の絵解きを拝聴しました
その後、数年前、学友と行った当麻寺練供養の当日にも、当麻寺中之坊で絵解きを拝聴しました
今回は、東京で聞く絵解きでしたが、関東人の「薄い反応」(関西から来て講演する人は皆そう感じるらしい)の中、
当麻寺の歴史から始まり当麻曼荼羅の絵解きまで、楽しい話を70分にわたり聞くことができました
…たとえ反応が薄くても、内心ではとても喜んでいますので、関西の方は心配なさらないようにしてください
逆に、年中吉本みたいなテンションだと、面白いけど疲労困憊してしまいます
んで、
「法然」さん、どこ行った?
っていう記事になってしまいましたが
法然さん「ちょ、待てよ」
終わります
2年前の奈良博の展示を見た時の記事です
是非、ご覧下さいませ