二つの展覧会
奈良大安寺は現在収蔵庫の修理中です
そのため、昨年は奈良博で、今年は東京国立博物館(トーハク)でそれぞれ大安寺展が開催されました
まずは、現在開催中の
・「特別企画 大安寺の仏像」展@東京国立博物館(2023年3月19日まで)
トーハクの第11室で仏像のみの展示ですが、撮影が可でしかも無料のパンフレットがもらえます
↓無料のパンフ
いろいろな角度から撮影出来て楽しいです
例えば…
↓入口でお出迎えの様子とか
↓遠い目をした感じのお顔とか
↓メタボなお腹とか(こら)
展覧会の全容
大安寺の地元奈良博では昨年開催
・「特別展 大安寺のすべて 天平のみほとけと祈り」@奈良博(2022/4/23〜6/19)
図録
奈良博の展示は規模が大きく、仏像、寺宝・出土品など様々な展示品がありました
二つの展覧会の間の時期に、大安寺の秋の特別開扉にも行きましたのでその時のことも併せて
↓こんな順番で書くつもり
①大安寺の歴史
現在の大安寺はお寺のパンフによれば↓、このような場所にあります
・それぞれの場所
移動を続けた大安寺の前身寺院の場所について地図で確認します
↓「大安寺の前身寺院(とその候補地)の位置」
(奈良博『大安寺のすべて』展、図録、7頁)
図録の解説によれば、
百済大寺は、吉備池廃寺が該当します
ここからは巨大な遺構が発見されましたが瓦の出土は少なく、次の移転先で使用されたことが考えられるようです
高市大寺(大官大寺)は複数の候補地が考えられるそうです
それは、①藤原京左京六条三坊(木之元廃寺と呼ばれていました)
➁ギヲ山西方
③小山廃寺
文武朝大官大寺は地図で示された場所で、巨大な寺院遺構が発掘されたそうです
・引き継いだ資産と現存しない乾漆像
移転を繰り返した前身寺院ですが、その資産は代々引き継がれました
その内容を示したのが図録に掲載された↓以下の表です
(図録、7頁)
大安寺の縁起
・大安寺式伽藍配置
大安寺は、かつて大安寺式伽藍配置とよばれる伽藍配置をとっていました
それは、南大門・中門・金堂・講堂を一直線に並べ、七重大塔を南大門の南の東西に配置するもので、最近お寺では当時の伽藍配置をCGによって再現しています
↓大安寺式伽藍配置図
現在の境内は黒い四角で塗られたところです
平城京の時代にいかに大きなお寺であったかということが偲ばれます
・ダルマ、ダルマ……
お寺の境内に入るとあちこちに小さなダルマがいて、眉をひそめてこっちを見ています
境内のあちこちから集団で、個体で、こちらを凝視しています
一体なにごと!?
安心してください(死語)
このダルマたち、実はおみくじでした
↓300円です
境内のどこに置くか、考えちゃいますね
・本堂と本尊十一面観音立像
拝観料を納めてから本堂に入ります
大安寺十一面観音立像(重文 彩色 190.5㎝ 8世紀)
本堂で公開中でしたが、奈良博にも出展されていました(トーハクの出展はなし)
体の質感と頭部の質感が明らかに異なります
残念なことに、この頭部は後補なのです(元の顔が知りたい!)
加えて、左腕の肘から先、右腕の前腕部の途中から先も後補です
カヤの一木、彩色像です
(よく見ると着衣に彩色文様の痕跡が残っています)
↓1997年に建立された嘶堂
馬頭観音立像(国宝 彩色 173.5㎝ 8世紀)
嘶堂におられる馬頭観音像は、六臂の像ですが、これらは後補で当初の姿は不明なんだそうです
文化財指定の名称は「千手観音」(ちょっとびっくり)
しかし当初から馬頭観音として造立された可能性が高いそうです
・ヘビ、ヘビ…
ところで、このお像、実はヘビだらけです!
↓胸飾に絡まるヘビ
「もしネックレスを付けた時、ヘビが絡まってたらどうしよう!」と思ってしまいますが
このヘビは、菩提流支訳『五仏頂三昧陀羅尼経』(693)や不空訳『菩提場所説一字頂輪王経』(753)などに説かれた馬頭観音の儀軌と一致するそうです
↓そして足首にもヘビ
「もしズボンをはいた時、足首にヘビが絡まったらどうしよう!」と思いますが(どんなシチュエーション?)、胸飾りと同様に儀軌に一致するそうです
大安寺、刺激的ですね~
嘶堂の外では、今にも歩き出しそうな燈篭!
↓シコ踏んだ足みたいだけど、よく見ると象の鼻
「千と千尋」あたりに出てきそう
嘶堂を取り囲んで「お砂踏霊場巡り」がありました
↓ここから入場し、嘶堂をぐるっと回ります
曲がり角には鐘がありました
↓澄んだ音がします
もう一つ鐘がありました
↓先程と少し違う音色です
・大安寺境内を出て、東西の塔跡と杉山古墳へ
大安寺の境内を出て、南側にある東西の塔跡と
北側にある杉山古墳に行ってみました
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/daianji.htm
まず、東西両塔の跡です
うっそうとした森を通り抜けた先に塔跡があります
私が行った時、うっそうとした森の中に「ヤンキー気味のお兄さんたち」が集結していて少し怖かったです
東塔跡
西塔跡
塔跡に伸びる雑草が「つわものどもの夢のあと」という感じ
帰りは、「ヤンキー気味のお兄さんたち」が怖いので、森を通るのを避けて柵を乗り越え車道を歩きました(私のほうが怖いかも…)
続いて、杉山古墳に行きます
↓「史跡大安寺旧境内 杉山古墳」と刻まれた石
杉山古墳は5世紀後半の前方後円墳で、奈良時代に大安寺境内に取り込まれたそうです
休園でした~(金曜日でした)
またいつの日か、リベンジすることも…あるかなあ?
大安寺木彫仏
大安寺には奈良時代の木彫の仏像が9体伝わります
これらは大安寺木彫群として、唐招提寺木彫群と並び称されてきました(唐招提寺木彫群については、最後に私の過去記事を貼りますね)
木彫は飛鳥時代に金銅仏とともに仏像の材料として使用されました
しかし、奈良時代には乾漆や塑像のような捻塑的な技法が主流となります
その後、8世紀半ばに鑑真が来朝したのをきっかけに、木彫仏が復活します
唐招提寺や大安寺の木彫群はこの頃の遺例です
鑑真来朝ののち木彫が復活した背景には、中国から請来された仏像が檀像であった影響が考えられます
檀像とは白檀で作られた像をいいますが、この白檀は中国では自生しません
そのため、中国では白檀の代用材として「栢木」が使われました(『十一面神呪心経義疏』)
日本の唐招提寺や大安寺の木彫群は、中国に倣い、白檀や栢の代わりにヒノキが代用されたと考えられていましたが、最近の調査でカヤで使用されたことが明らかになりました
そこで、トーハクで展示された木彫像7体について、私が「激写」したシロウト写真も交えながら観ていきたいと思います
・楊柳観音菩薩立像(重文 木造 彩色 168.2㎝ 奈良時代 8世紀)
トーハクでいただいた無料のパンフレットの写真↓
頭部から足下まで一材から彫出された像です
↓私が「激写」した写真
背後の壁のシルエットもかっこいい楊柳観音像
顔、こわいですね
鼻と髻は後補です
胸の下の石帯や胸飾りは唐時代の影響と考えられているそうです
髻が後補であることや、忿怒尊であること、岩座に立つこと(下の写真参照)などから、馬頭観音であった可能性が指摘されています
横顔↓
耳の後ろから肩の前面、側面にかかる髪は木屎漆を盛り上げて成形
↓左手の肘から先が後補
右腕の肩から先が後補
岩座に立っています↓
・不空羂索観音立像(重文 木造 彩色 189.9㎝ 奈良時代 8世紀)
↓トーハクのパンフレット…穏やかな良いお顔です
8本の腕は後補
↓私の撮った写真
鼻、両耳の耳輪の一部と耳朶、天冠台の一部などが後補
髻は木彫の上に木屎漆を盛り付けてあります
他の木彫群と少し雰囲気が違い大らかな印象
↓お腹の周り、二重のエプロンみたいに裙が巻かれている
背中に漂う哀愁感…
・聖観音菩薩立像(重文 木造 彩色 176.0㎝ 奈良時代 8世紀)
↓トーハクのパンフ
このお顔の目の怖さ、いかり肩は唐招提寺木彫群に似ています
上の写真の拡大…目が怖くて、いかり肩
↓唐招提寺伝薬師如来立像(重文 木像 8世紀後半 165.0㎝)
・唐招提寺伝衆宝王菩薩立像(重文 木造 8世紀後半 173.2㎝)
・唐招提寺伝師子吼菩薩立像(重文 木造 8世紀後半 171.8㎝)
眼からビームが出そうな怖さといかり肩が、大安寺の聖観音と似ている
と思ったら…
↓私のシロウト写真
私のシロウト写真では、「夕日に向かって走ろうぜ!」みたいな前向きな表情に撮れました
髻、化仏、左肩以下、右肘以下が後補です
↓岩座も後補ですが、足を支える楕円形の台は像と一材です
↓首回りの装飾が美しいです
衣の襞もきれいです
・四天王像(重文 木造 素地(現状))
四天王像はいずれも奈良時代8世紀の作と考えられるそうですが、作風が違うため当初からの組み合わせとは考え難いそうです
・持国天立像(148.9㎝)
↓トーハクのパンフの写真
↓私が撮った写真
正直に言うと、この持国天を今回観た時、頭部が全部後補かと思いました
しかしどこを調べてもそのような記述はなく、当初のもののようです
後補と思ってしまった理由は、
お顔の肌の状態がツルツルできれいなこと、憂いを秘めた表情が他の像たちとは異なると感じたことです
↓まるで後補か?と思われるような美肌、それにリアルな憂いの表情
↓うーん、こうやって見ても、動きこそないけど、鎌倉時代くらいの作品に見えません?(私の目が節穴なだけか)
両肩より先は後補です
↓横顔の表情も憂いを帯びている
↓もう少し後ろにまわると、握られた右手が見えて面白いです(ジャンケンしそう)
左手の袖の先は、断面がみえています(どちらの手も後補だけどね)
それほどメタボではありません
美しい右手…後補だけどいい仕事
・増長天立像(140.3㎝)
↓トーハクのパンフの写真
両肩より先が後補です
↓私が撮った写真
壁に写った影が力強い
↓メタボ
・広目天(135.0㎝)
左肩より先と右肘より先が後補…広目天は筆を持つのが一般的ですが、この像は「太刀の柄を執って鞘尻を地上に突く神将像と同様の形姿」だったという見解があるそうで、どんな姿勢だったんでしょうね
↓私が撮った写真
↓メタボを隠す右手(こらこら)
↓いや実はスマートだった!?
・多聞天立像(142.0㎝)
↓私が撮った写真…多聞天は入り口で受付をしていました(ご苦労様)
↓お腹のあたりには、可愛いハート型を忍ばせていました
↓オシャレな編靴は唐時代の影響だそうです
釈迦如来像と二つの模刻像
大安寺には、奈良時代の木彫群に先立ち、本尊釈迦如来像がありました
現存しないこの釈迦如来像は、最も優れた仏とみなされた記録を持ち、霊験仏として模刻の手本となりました
・来歴
大安寺釈迦如来像は天智天皇によって奉造された、丈六の乾漆像です(『資材帳』)(このブログの初めの方で書いた「即」「二具」と書かれた像ですが、この「二具」は「一具」の誤記と考えられています)
当初は百済大寺の本尊でしたが、寺が高市大寺、大官大寺、大安寺と改称し、移動するごとにこの像も本尊として移動し、最終的には大安寺に安置されました(その後残念なことに、16世紀後半の松永久秀の乱により焼失)
・高い評価
『七大寺日記』(1106年頃)と『七大寺巡礼日記』(1140年頃)の(いずれも)「薬師寺条」には、「大安寺釈迦像を除けば薬師寺金堂の薬師如来像が最も優れている」という評価が遺されています
すなわち、12世紀頃、優れた仏像は大安寺像が1位、薬師寺像が2位と考えられていたということです
大安寺像は白鳳時代の制作で、薬師寺像は天平時代の制作なので(新鋳説を前提として)、上の二つの『日記』の作者はより古い白鳳時代の大安寺に高い評価を下したことになります(なお『七大寺日記』は大江親通が作者ではないことが認められ、『七大寺巡礼日記』についても大江親通を疑問視する説があるそうです)
大安寺像の評価については、「神仏が姿を変えて出現した」とか、「天人が降臨して釈迦像の美しさをたたえた」などと表現されています
(醍醐寺本『大安寺縁起』所引「大安寺碑文」(775年、淡海三船撰)では「仏工権化」「相好之妙体」と評し、
醍醐寺本『大安寺縁起』(895年)では「好相已具」「化身」と評しますが、どちらも上に書いたような意味です)
・霊験仏化とその背景
『日本霊異記』(822)では、「大安寺碑文」(775)を根拠として、大安寺釈迦如来像が奇瑞により人々を救済する霊験仏であるという説話を二つ載せています(上巻第三十二縁、中巻第二十八縁)
また、『大安寺縁起』(895)には、上に書いた賛辞のことばに加え、大安寺像を「霊山の実相」すなわち霊鷲山で説法する釈迦の姿と違わないものであると評価しています
このように大安寺像は霊験化されていきましたが、そこには次のような歴史的背景があると考えられます
それは当時の天皇が、それまでの天武系から天智系の光仁天皇へ交代したということです
この皇統の交代により、それまで天武系で重視されていた東大寺・西大寺に代わり、天智天皇が奉造した釈迦如来像が安置される大安寺が重視されるようになったのです
しかし、東大寺・西大寺より古い創建である大安寺の釈迦如来像は効験性の点で時代遅れ感があったため、大安寺碑文でその霊験性が強調され喧伝されたと考えられるそうです
・浄土教の隆盛と大安寺像の模刻
9世紀になると、法華信仰が高まり、大安寺釈迦像はより高い霊験性を獲得しました
10世紀末には浄土教の流行で法華信仰はさらに高まり、『往生要集』で有名な源信は横川に霊山院を建立しました(正暦年中、990~995)
この霊山院の本尊は定朝の父であり師である康尚が制作した等身の釈迦如来像で、霊山院では釈迦講が開かれました
この釈迦講の結縁者の一人仁康は、正暦2年(991)に河原院(光源氏のモデルといわれる源融宅)に釈迦像を設置し五時講を行います
この釈迦像も康尚が制作したもので、大安寺像の模刻像なのです(後に仁康はこの像を祇陀林寺に移しています)
このように、10世紀末に康尚が白鳳時代の大安寺像を模刻の手本としたことは、続く11世紀に定朝によって完成される和様彫刻にも白鳳時代の影響が及んだ可能性があるということかもしれませんね(私見)
どの像も現存しないところが残念ですが、白鳳時代の遺像といえば(ブログの容量を越えてしまうため画像が貼れないのですが)旧山田寺(興福寺)仏頭、法隆寺夢違観音・橘夫人念持仏など優しげで穏やかなものが多く、たしかに和様彫刻と通じるものがあるかもしれません(調子に乗った私見)
また、上に書いたように『七大寺日記』等で、大安寺像が天平の薬師寺薬師如来像を差し置いて1番の評価をえたことも、『七大寺日記』が平安末期の書物であることを考えると、当時の理想が「白鳳」>「天平」という感覚だったことの裏付けになるかもしれません…(1位と2位は多分僅差なんじゃないかと思いますが…)
・もう一つの模刻像と霊験譚
ところで、大安寺像を模刻した像がもう一つあります
それは、薬師寺東院八角仏殿の本尊釈迦像です
長和3年(1014)から長暦元年(1037)の間の制作と考えられています
この像については『七大寺巡礼私記』に、丈六像で定朝が作ったこと(定朝作を認める定説はない)、大安寺の釈迦像を摸刻した像であること、金箔が得られないため薬師寺別当輔静が金峯山に参詣し祈願したところ、金を得ることが出来たことが記されています(ただし、台座に充てる金箔は不足してしまい、輔静はそれも「蔵王権現の思し召し」として別の場所から調達して金箔を施すことを受け入れず、百年後に事情を知らない門徒が金箔を施したというオチがついています)
金峯山は奈良吉野にありますが、藤原道長が埋経を行ったことで有名です
道長が埋納した経筒には、「弥勒」など弥勒信仰を表す言葉や、「蔵王権現」ということばの他に、「法華経」「釈尊」など法華信仰を示すことばも刻まれており、当時の貴族の中で法華信仰や金峯山信仰が盛んであったことがうかがえます
つまりこの模刻像は、単に霊験仏である大安寺像の模刻というだけでなく、当時流行していた金峯山信仰にもとづき、釈迦の化身である蔵王権現のご利益で完成したという霊験譚を重ね持つ像であったということです
これは、大安寺像の持つ霊験性に飽き足らず、当時流行した金峯山信仰を上乗せしてより高い霊験性を確保する意図が働いたということかもしれません
・二つの模刻像
先に述べた河原院の大安寺像模刻の釈迦像(康尚作)が、大安寺像の持つ霊験性に加え、浄土教隆盛に伴う法華信仰の流行に基づき、霊鷲山の釈迦の実相と同じであるという霊験性を上乗せした像であったのと同様に、
薬師寺東院八角仏殿に安置された大安寺像の模刻の釈迦像も、大安寺像の持つ霊験性に加え、蔵王権現の利益や法華信仰に基づいた霊験性を上乗せした像であったと考えられるのです
大安寺釈迦像、康尚作の河原院の釈迦像、薬師寺東院八角仏殿の釈迦像のどれも現代に伝わらないのが残念です
(参考文献;中野 聰「霊験仏としての大安寺釈迦如来像」、谷口耕生「「霊山の実相」としての大安寺釈迦如来像」)
さいごに…
字数制限に引っかかってしまい窮屈な書き方になってしまったのですが、
今回の記事を書いていて、時々大安寺と元興寺を書き間違えるということをやらかしました
なんか、大安寺と元興寺って、(昔は大規模、今は小規模ってところが)ちょっと似ていると思いませんか??
唐招提寺の木彫群 2017/03/04