2月23日午後、東京・有楽町朝日ホール(マリオンの上)で、法隆寺金堂壁画に関するシンポジウムがありました
このシンポジウムは、今回で3回目(あれ?5回目だっけ?)らしいのですが、私は初めて行きました
初めに、法隆寺の大野玄妙管長の開会挨拶があり、
その次に基調講演を東京芸術大学客員教授の有賀祥隆さんがなさいました
有賀先生、美術史の世界でとても著名な先生なんですが、口調がお優しくて、私も含め周りがこっくりさんになってしまいました
本当に申し訳ない気持ちでいっぱい
その後、パネルディスカッションが行われました
法隆寺金堂壁画の保存とこの先の一般公開へ向け、「法隆寺金堂壁画保存活用委員会」は5つのワーキンググループに分かれて活動なさっているようで、各ワーキンググループからお一人ずつパネラーが出て報告が行われました
コーディネーター : 朝賀 浩(京都国立博物館学芸部長)
ワーキンググループ(WG)
保存環境 小椋 大輔(京都大学大学院工学研究科教授)
壁画:美術史班 梶谷亮治(奈良国立博物館名誉館員)
壁画:材料調査班 高妻洋成(奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長)
建築部材 林 良彦(奈良文化財研究所客員研究員)
アーカイブ 青柳憲昌(立命館大学理工学部建築都市デザイン学科准教授)
以下、昨日聞いてきた内容を、せっかくメモしたので、ランダムにぽつりぽつり書いておきます
ちゃんとした内容は、3月10日の朝日新聞に記事が出るそうですので、それを楽しみにしたいと思います
私は初めて聞きに行ったため、これまでの話のいきさつをよく知らなかったのですが、議題が法隆寺金堂壁画なので、きっとそれぞれの壁画の保存状態から始まり、できればそれぞれの壁画の解釈(阿弥陀浄土図以外の壁画の意味の最新の多数説のようなもの)などを教えていただけるのかしら?と思っていたのですが、ちょっと違いました
まあ、それはいいとして…
法隆寺の建立と現代に至るまでの修理の歴史はザッと、以下のようになるようです
法隆寺金堂は推古15年(607)に建立されましたが火災にあい、670年前後に再建されました
その後現在に至るまで数々の修理が行われてきたそうです(嘉保、康和、元久、……元禄と、11回くらい)
近代になってからは、
岡倉天心が大正5年(1916)に文部省内に法隆寺保存方法研究会を立ち上げ
その後(しばらく間が空くのはどうしてなのか知りませんが)
昭和の大修理が昭和10年(1935)ごろに準備に入り、昭和14年(1939)に具体的手法が決められましたが、途中戦争があり、
昭和20年に金堂の上層が解体され、下層だけの状態となったそうです(8月15日の終戦直前?)
そして、戦後
昭和24年1月26日の寒い時期に金堂火災がありました(これにより、昭和25年に文化財保護法が作られる)
この時、上層は解体されており、飛天図も取り外されていたため、火災の被害を免れたそうです
火災の原因については、壁画模写作業中の電気座布団や絵具の接着剤を溶かすためのヒーターの過熱などの可能性が指摘されたそうで、関係者が起訴されたそうですが結局は無罪
↓朝日新聞 2016/1/26
火災の後、
昭和24年に改めて修理が始まり、昭和26年には収蔵庫の設計、昭和29年に完成、昭和36年に初重の軸、組物、天井回りなどの焼けてしまった物も「金堂附(金堂つけたり)」として重文指定されたそうです(ヨカッタネ)
↓焼損壁画のある収蔵庫(昨年度法隆寺夏季大学)
国宝保存委員会(藤島亥治郎、村田治郎、坂静雄、浜田稔、平山嵩、関野克、竹島卓一)は、焼損壁画について
初めは、保存修理して元通り収める方針をとったそうですが、これでは脆くなっている恐れがあり次の地震などの時に破損するかもしれないということで、
次は、取り外した壁画については別に保存する方針としましたが、保存の方法について箱に入れるとか、立てかけるとか考えられた方法はボツとなり、
結局、焼けた時のままの状態で収蔵庫に保存することになったそうです
収蔵庫設置にあたっては、焼損 という事態を勘案して「謙遜」(「敬謙」だったかな?)な建物としたそうです
今までに火災にあった国宝重文でも、元の部材で立て直した後再び重文となったものはたくさんあるそうで、法隆寺金堂壁画はその先駆けとなっているそうです
これに続く例は、日光東照宮本地堂、川崎旧太田家などがあり、中でも注目は奈良山田寺東廻廊部材(水に浸かっていたのでくさらなかった)で、現在は組み立て直された建物?が、明日香資料館展示室に再現され22年経過したそうです
立て直しの際に使われた樹脂は、法隆寺金堂では構成樹脂ウルトラール(ウルトラソウルみたい)、日光本地堂ではアクリルエマルジョン樹脂(洗剤みたい)ヽ(^。^)ノ
(こういうちょっと理系っぽい話は全然わからないわ)
ところで、金堂の壁画は、
①罹災を免れた飛天図、
②損傷の激しい山中羅漢図、
③阿弥陀浄土図などの有名な壁画
の三種類に分かれるようです
これを金堂に設置されていた場所と対応させると面白い ことがわかるようです
①飛天図↓
まず、金堂の断面の構造はこのようになっているそうです↓(私の雑なメモ)
このへたくそな図(絵の才能がないのに加えて、写す時間がなかった)によれば、
①飛天は母屋(内陣)を取り囲む長押の上、
②山中羅漢図は外陣上部(拱間壁)、
③一番有名な阿弥陀三尊像などの壁画は外陣下部で裳階(もこし)が外についています(普段拝観するとき通るのはこの裳階部分)
これは会場で美術史の梶谷先生がおっしゃっていましたが、
山中羅漢図だけが、建物の構造上、外の空気と触れる作りになっているため、著しい破損があった可能性もあるようです
山中羅漢図のあった壁は、組み物によってさらに小さく区切られた部分があり、
山中羅漢図の部分を拱間壁(きょうかんへき、小さく区切られた部分を拱眼壁(きょうがんへき…漢字があってるかどうかわからない)と呼ぶそうです
↑引き続き下手な絵でお送りしています…拱眼壁のほうには赤っぽい色で、山や松などの絵が(その気になれば)見えるようです(信じる者には見える?)
この辺の話は眠くなりましたが、メモがあるので貼っておこう
↓なんか、箱の中に拱眼壁の断片が保存されているらしい
↑眠気と闘いながらの絵それから、壁画の材料の話
キトラ古墳と高松塚古墳では凝灰岩の上に漆喰をぬり、絵が描かれているそうで
上淀廃寺と法隆寺金堂では土壁に白土を塗り、そこに絵が描かれているそうです
(だから?と聞かれても、その意味はわからん…だけど、平等院鳳凰堂の壁画なんかも初めは土壁、板壁混在してたな…と脱線…)
法隆寺金堂壁画保存活用委員会は、ここまで3年間にわたり活動をされてきたそうです
収蔵庫にある金堂壁画の保存状態の調査と、一般公開するにあたっての問題点の検討はもちろん、
収蔵庫自体も公開に耐えうる建物であるかどうかが大きな論点だったことが、目からウロコの気がしました
3月10日の朝日新聞の記事を首を長くして待ちたいと思います
(松田聖子の誕生日だよね?聖子ちゃん、57歳←これが一番びっくり!)
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