♪気にしない〜気にしない〜♪少しは気にしろよ!
少し間が空きましたが、蟹満寺→寿宝寺…の続きです
「ちきんはうす」で腹ごしらえしたあと、観音寺までの道のりはあっという間でした
ほらね
あの山の麓に観音寺があります
この道は観音寺の参道ですが、どうやら観音寺の裏に抜けられるらしく、ウォーキングコースの一部になっていました
青空のさわやかな、ウォーキング日和でした
観音寺、別称は普賢寺、大御堂
歴史は古く、天武天皇の勅願、義淵僧正が創建
そして、聖武天皇の御願により良弁僧正が再興
他方、実忠が開基、宝亀9年(778)ごろまでに寺観を整えたともいわれます
実忠は、東大寺のお水取りを始めた人です🤔
延暦、治承、弘安、永享などに何回も火災にあいましたが、藤原氏の外護により再興されました
往時、釈迦堂、大御堂(金堂)、小御堂(普賢堂)、講堂、五重塔、仁王門、南大門、僧坊20宇がありました
永禄11年(1568)の火災の後は大御堂(現、本堂)のみ再建され、観音寺と称し現在に至っています
現在の建物は、昭和28年再建のものだそうです
白鳳時代の瓦も出土しており、奈良以前の創建であるとがわかります
ところでこのお寺、「息長山」普賢教法寺と号しているところから、「息長山?…むむ?もしかして、息長(おきなが)氏と関係あるの?」…と少し「わくっ」としましたが、「おきなが」ではなく「ちょくそくさん」と読むそうで、おきなが氏は関係ないようです
関係ないけど、せっかく調べたので参考まで
息長氏について
↓
太古の湖北と息長氏(観音寺に関係ないよ)
そしてここにいらっしゃるのが
国宝十一面観音立像
木心乾漆 漆箔、内ぐりは背面から大きく施されていて、「足ほぞ」は共木、
制作年代は8世紀半ば〜後半、
実際は厨子の中にいらっしゃいますが、近寄って見ることができます
頭上面は瞋怒面2、牙上出面1だけが当初、
ほかの面と両手指のほとんどと天衣遊離部、持物は後補
体は腰をわずかに右にひねり、両足は揃えて立つ
↓お顔、肉身は張りがありみずみずしい
間近で観るのと少し引いて観るので印象がかわりますが、
美しい観音様です(2回目)
ところで、この観音寺の十一面観音像は、あの
聖林寺十一面観音像とよく比較されるそうです
↓聖林寺十一面観音像
聖林寺の足ほぞ はとても長く、台座から膝のあたりまで突き抜けます
上半身の条帛は、私の印象ですが、筋肉養成ギプスみたいに食い込んでいて苦しそうです…そのせいで、ちょっと怒っていらっしゃるように見えます🙄(私の印象ですが)
二体を並べてみましたよ…どうでしょうか?
観音寺(左)と聖林寺
やはり似ていらっしゃいますね
実際は、聖林寺の方が一尺ほど背が高いようですが、どちらも出来栄えがとても良く、官営工房(造東大寺司)の造像と考えられます
この二像ともに8世紀後半あたりの制作で、乾漆、塑像の完成期にあたります
(8世紀の終わりには純木彫像が現れ、時代が移行して行きます)
乾漆像は、はじめの頃は脱活乾漆(阿修羅像のようなハリボテ)でしたが、次第に聖林寺像のような木心乾漆に移行します
これは南都を中心とした乾漆技法の完成度を表しています
では、次、顔面…どちらが好み?
私は観音寺に一票を投じたいと思います…
だって、聖林寺おじさん、ちょっと疲れて、目のクマくっきり、肌荒れなんだもの…(失礼お許しを!)
それに比べて観音寺さんは、目が麗しく頬に張りがあって、ステキ
…と思ってよく見て見たら…あっら〜〜?かなんだか急に劇団ひとりに見えてきてしまったけど?
……ひぇ〜どうしよう?
で、この二体、よく見ると口元あたりがやっぱり似てるかもね( ̄□ ̄;)
東大寺の二月堂のお水取りの竹は、ここ観音寺から送るんですって!
知らなかったわ〜〜
観音寺では住職様がタクシーを呼んでくださるという一言にグラっときてしまい、タクシーをお願いしました
一休寺はとくに仏像が有名というわけでもないのですが、紅葉が綺麗でしたので画像貼ってみます
一休寺(酬恩庵)
↓一休さん
この橋わたるべからず
一休寺の境内には「20世紀の森」というエリアがあり、
「縛りあげますから、このトラを屏風から出してください!」
♪あ〜あ〜なむさんだ〜
あなた、私と同年代よ!
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