金堂6号壁 阿弥陀浄土図 脇侍(模写)
法隆寺焼損壁画を自分の目で見てから、この壁画全体の「色合いの強弱」について考えてみました
(「焼失」と一般的に言われているので前回はそう書きましたが、失われているとまでは言いがたいので今回は「焼損」としてみます)
前回の記事で焼損壁画について印象を書いた時には、絵全体の退色が西北壁に顕著で、東側は濃い絵が残っていることから、
「火元は西北側か?」
と考えましたが、
「いやいやそうではないだろう」
と考え直すに至ったので、少しそのことについて書いてみます
今回のキーワードは「日差し」です
火災について
まず、火災そのものについて、概要です
昭和24年1月26日早朝、法隆寺金堂は火災にあいました
当時模写中であった内陣の壁画はこの火災で焼損しました
それが金堂焼損壁画です
不幸中の幸いだったのは、金堂の上層部分と釈迦三尊像などの仏像が、昭和20年から疎開中だったために罹災を逃れたことです
建物は上層が解体されており、一階部分だけがその場所にあったのです
その一階部分の建物も、修復作業のため覆屋で外側がすっぽり覆われていたため外からは見えず、そんな建物の中で壁画の模写作業が行われていたわけです
火災が発生したのが26日早朝の時刻、覆屋が目隠しとなったため発見が遅れてしまいました
覆屋はまるでエントツのようになり、そこから煙が上がったようです
このように、覆屋が目隠しとなってしまったこと、火災が早朝の時刻だったことが災いして発見が遅かったのです
現在の金堂壁画について
現在の金堂の壁画は、1967年から始められた模写作業により描かれたものが貼り付けられています
模写作業は現地ではなく別の場所で行われ、コロタイプ印刷された紙の壁画に、名だたる画家さんたちが彩色したものです(前回の記事で書いた画家の方々)
模写された絵はパネルに嵌め込まれて設置されたそうです
…金堂壁画はこのようにして蘇りました
さらにこの数年は、内部がLED照明になり、仏像も壁画も以前より鮮やかに見ることができるようになりましたよね
ちょっと前までは、ボランティアのおじさまが大きな懐中電灯で釈迦三尊像を照らしながら説明してくださったものです🔦
焼損金堂壁画について
一方、焼損した一階内陣部分はそのまま保存されています (大宝蔵殿の奥の建物にすっぽりと入れられています…どうやって運んで、どこからいれたんだろう?)
これは、一般には非公開で夏季大学の受講者のみに公開されます
この壁画について、先日の夏季大学1日目に実見しましたが、前回の記事に書いたように、
西北側すなわち7号、8号壁あたりの絵が全体的に薄く、逆に東側すなわち1号、2号、12号壁のあたりが(1号壁などは白黒反転しているものの)全体的にハッキリと絵が残っているように見えました
そのため、前回の記事では
「火元は、壁画の退色がひどい西北側に近かったんじゃない?」
と考えたのですが、それではおかしいのです
なぜなら、模写された絵(現 金堂壁画)を見ても同様の傾向(西北が薄く、東側が濃い)があるからです
この絵の模写はコロタイプを彩色していますが、色づけにあたっては、火災前の昭和10年の便利堂撮影の写真を参考にしていたようです
このことから考えられることは、
火災に関係なく、もともと西北側の壁の絵は色が抜けかけて全体が薄くなっていて、東側の壁は色が濃かったのではないか?ということなのです
下の模写された絵(現 金堂壁画)を見てみるとわかります
西北部分の7号、8号壁画は、焼損壁画も模写の壁画(現 金堂壁画)も色が薄い
7号壁(模写=現 金堂壁画)焼損壁画も、とても色が薄かったです
同様に、焼損壁画も白っぽくてよくわからないくらいでした
12号壁画 、1号壁あたりは、焼損壁画も現 金堂壁画も色が濃い(焼損壁画1号壁は白黒反転のように見えた)
12号壁(模写=現 金堂壁画)
12号壁(模写=現 金堂壁画)
この部分の焼損金堂壁画も、色は抜けていたもののはっきりと像の形が残り、とても美しく感じました
この場所の焼損壁画は、色彩は抜け、白黒反転の上はっきりとした濃い絵が残っていました
つまり、焼損壁画の残り具合や濃淡の差は、火災とは関係ない
火災よりもずっと前からこの傾向があったということになります
このことは金堂壁画を覗き混んでいるときに気づき、その理由がとても気になりました
1つ考えられるのは、「建物の向きと日差しの関係」です
法隆寺西院伽藍は、ご存知のとおり、回廊に囲まれて、東側に金堂、西側に五重塔、北側に大講堂があります
私はこう考えました
午前中は東側から日が昇り、太陽の日差しが金堂内に少しは届く(直接 陽が入り込まなくても明るくなる)
すると、金堂内の西側部分は、内陣であっても床石の照り返しなどの助けもあって少しは光が届き明るくなるのではないでしょうか?
これに対して、夕方の日差しは、お隣の五重塔が邪魔をして午前中ほどの量は金堂内まで届きません
とすると、金堂内の東側部分にはより弱い光しか届かず、相対的に暗い場所となると考えられるのです
建物の内部なので、光の差はほんの少しかもしれません
しかし、これが1300年を超える年月の間に積み重なり、少し明るい西側の壁画は日焼けによる退色が進み、東側はそれほどの退色がなかった…と考えられないでしょうか?
真犯人は?
…と、ここまで考えてから、昨日の法隆寺夏季大学で奈良大名誉教授の東野先生の講演を聞きました
東野先生の講演は全く別の話でしたが、話の途中に、「東側はカビで真っ黒になっていたものが、火災の熱で返って色が安定した」という話があり、
え?東側はカビていたの?
( ̄□ ̄;)!!
と、予想しなかった原因に驚いてしまいました(^▽^;)
カビの原因もやはり日差し?
しかしですね…
カビが生えたのも、日差しがあまり届かないことが一因だったのではないでしょうか?
カビは暗くてジメジメしたところに繁殖しますよね?
ということは、やはり、
・東側は日差しがあまり届かず、ひどい退色はなかった、それだけでなく、加えてカビが生えた
そのため、濃い絵になった
・西側は長い間の微妙な光の明るさの積み重ねで退色した
・その状態の写真に基づき、後にコロタイプ写真に彩色したものが現在の金堂壁画である
・火災にあった後の焼損壁画にも元来の色の強弱の傾向が残り、とくにカビのあった面はくっきりと絵が残った
これをケガならぬ「カビの功名」という…(え?)
…ということで、いかがでしょうか?
小さな結論
つまり、金堂壁画の東西壁面の色の強弱の差は、差し込む光の量の差に基づくものであり、その差の原因は西にある五重塔の存在にある
という小さな結論で締めくくりたいと思います
金堂壁画については、各面が何を意味するものか、絵の主題についての先行研究は沢山あるようですが、色の強弱についての研究は検索した限りでは見つかりませんでした
瑣末なことかもしれませんが、実際の焼損壁画を見て見なければ思い浮かばない疑問であるかもしれません
焼損壁画は色が退色している分、色の強弱が強調されて見えて、これはこれで大変興味深いものでした
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