「聖林寺十一面観音の評価」は、以前から私の頭の中でずっと気にして、引きずってきたテーマです
以前から当ブログを読んで頂いてる方は関連した内容をご存知だと思うのですが、
今までの内容のリンクを一応貼りますね(大した内容でもないけどね)
2014/12/17町田甲一『古寺辿歴』
2014/12/05改訂版町田甲一『大和古寺巡歴』に聖林寺十一面観音の記述がないことについて
2014/11/12浄瑠璃寺の馬酔木、法華寺十一面、亀井勝一郎などなど…
2013/6/10春の聖林寺2
2014/12/05改訂版町田甲一『大和古寺巡歴』に聖林寺十一面観音の記述がないことについて
2014/11/12浄瑠璃寺の馬酔木、法華寺十一面、亀井勝一郎などなど…
2013/6/10春の聖林寺2
(写真、六田知弘さんのHPより)
(ゴルゴラインくっきり…)
「なんだよーあんたもしつこいねー」
ほんと、しつこくてゴメンね
ゴルゴちゃん
私が気にしているのは聖林寺十一面観音です
━ 奈良博物館での展示について ━
聖林寺十一面観音の記述を見る前に和辻哲郎『古寺巡礼』の中に、気になる 箇所がありました
それは
当時、聖林寺十一面観音が奈良博物館に展示されていたこと
(和辻氏が聖林寺十一面観音に出会ったのは聖林寺のお堂の中ではなくて、奈良博物館の「推古天平室」での展示でだったようです)
展示方法について書かれていること です
(展示方法については、詳細 な記事があります(該当箇所の引用はこれに続けて書きます)
それによれば、どうやら博物館の中心部に「推古天平室」という部屋 があったようです)
以下『初版 古寺巡礼』(1919年)(ちくま学芸文庫、2012年)より引用
「(奈良博物館の)玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側には、・・・・(『古寺巡礼』 「九 奈良博物館」)」
と、正面の陳列壇に聖林寺十一面 が置かれていること、ガラス戸が邪魔なのであけてある時に見たことが書いてあります
「・・聖林寺観音の左右には大安寺の不空羂索観音や楊柳観音が立っている。それと背中合わせに わが百済観音が、縹渺たる雰囲気を漂わして佇む。これは虚空蔵と呼ぶのが正当であるかも知れないけれども(←一番最後にコメントあります) 、伝に従って我々は観音として感ずる。その右に立っている法輪寺の虚空蔵菩薩は、・・・・・更に百済観音の左には、薬師寺(?)(←カッコと?マークは原文ママ)の、破損はひどいが稀有に美しい木彫の観音があって・・・・、その後方には法隆寺の小さい観音も立っている。
目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、錫杖をもった女らしい観音や一連 の蓮花を携えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。更に目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも唐招提寺などの木彫の観音が、恰も整列せしめられた如くに、並び立っている。━室の中央には法隆寺の小さい金堂観音が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上の所々に佇んでいる。岡寺の観音は半跏の膝に肱をついて、夢見るごとき、・・・・・推古天皇室に観音の多いこと・・・・(「十一 数多き観音像」)」
ここの記述により、観音を中心とする豪華仏像メンバーが一堂に会していた ことがわかりますね
奈良博物館は、現在の なら仏像館ですね
そして、「推古天平室」には、観音像を中心にそうそうたる仏像が集まって展示されていた・・・・
その理由は不明です…廃仏毀釈の影響か?お寺が一斉に耐火建築に建て替える時期だったのか、天平の博覧会でもあったのか…?(← いますぐ調べろ!とかいわないでね そのうち調べるかもくらいにしておきますねー←そこまでする気はあまりないらしいけどね)
私はそもそも、このお像を初めて知った時から、そして初めて拝んだ時から(三十年くらい前)
タイプじゃなかった(ノ´▽`)ノ
ってことなんだけど、
つまり、ずっと気にしていて、追いかけている内容は
世間一般の高評価と
私の感覚に(そこそこ)大きな隔たりがあるのはなんでか?
ということです
そして、数年前、町田甲一さんがやはり
聖林寺十一面観音像の高評価に反対している文章をみつけて、長年のわだかまりが消えたわけです
その文章は手元になかったのですが、最近また読みたくなりました
そして、探偵団ひとりを結成し 探偵活動をしておりました
(少年探偵団じゃなかったかしら?)探偵活動の甲斐あってか、ここに少しばかり資料が揃ったわけです
(もちろん不完全ですし、偉そうな論文っぽくしようとしてるわけでもなく、ただ面白いから書いてみようかなという程度のことですよ(*^ー^)ノ…だから、読み流してね 言い訳だけど )
(もちろん不完全ですし、偉そうな論文っぽくしようとしてるわけでもなく、ただ面白いから書いてみようかなという程度のことですよ(*^ー^)ノ…だから、読み流してね 言い訳だけど )
それにしても、人の感じ方っていろいろあるんですね~(^。^)
人さまの評価の受け売りじゃなくて、自分の目をまず信じたいものです~(^。^)
たとえ、それが世間の評価と一致しなくてもね
参考にするのは、
和辻哲郎『古寺巡礼』と
和辻哲郎『古寺巡礼』と
町田甲一『古寺辿歴(てんれき)』、『大和古寺巡歴』です
━ 奈良博物館での展示について ━
聖林寺十一面観音の記述を見る前に和辻哲郎『古寺巡礼』の中に、気になる 箇所がありました
それは
当時、聖林寺十一面観音が奈良博物館に展示されていたこと
(和辻氏が聖林寺十一面観音に出会ったのは聖林寺のお堂の中ではなくて、奈良博物館の「推古天平室」での展示でだったようです)
展示方法について書かれていること です
(展示方法については、詳細 な記事があります(該当箇所の引用はこれに続けて書きます)
それによれば、どうやら博物館の中心部に「推古天平室」という部屋 があったようです)
以下『初版 古寺巡礼』(1919年)(ちくま学芸文庫、2012年)より引用
「(奈良博物館の)玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側には、・・・・(『古寺巡礼』 「九 奈良博物館」)」
と、正面の陳列壇に聖林寺十一面 が置かれていること、ガラス戸が邪魔なのであけてある時に見たことが書いてあります
「・・聖林寺観音の左右には大安寺の不空羂索観音や楊柳観音が立っている。それと背中合わせに わが百済観音が、縹渺たる雰囲気を漂わして佇む。これは虚空蔵と呼ぶのが正当であるかも知れないけれども(←一番最後にコメントあります) 、伝に従って我々は観音として感ずる。その右に立っている法輪寺の虚空蔵菩薩は、・・・・・更に百済観音の左には、薬師寺(?)(←カッコと?マークは原文ママ)の、破損はひどいが稀有に美しい木彫の観音があって・・・・、その後方には法隆寺の小さい観音も立っている。
目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、錫杖をもった女らしい観音や一連 の蓮花を携えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。更に目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも唐招提寺などの木彫の観音が、恰も整列せしめられた如くに、並び立っている。━室の中央には法隆寺の小さい金堂観音が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上の所々に佇んでいる。岡寺の観音は半跏の膝に肱をついて、夢見るごとき、・・・・・推古天皇室に観音の多いこと・・・・(「十一 数多き観音像」)」
ここの記述により、観音を中心とする豪華仏像メンバーが一堂に会していた ことがわかりますね
奈良博物館は、現在の なら仏像館ですね
そして、「推古天平室」には、観音像を中心にそうそうたる仏像が集まって展示されていた・・・・
その理由は不明です…廃仏毀釈の影響か?お寺が一斉に耐火建築に建て替える時期だったのか、天平の博覧会でもあったのか…?(← いますぐ調べろ!とかいわないでね そのうち調べるかもくらいにしておきますねー←そこまでする気はあまりないらしいけどね)
奈良博物館の現在(=なら仏像館)のレイアウトをみてみます
現在は、新館が東側にあるので、入口は東側ですが、おそらく、当時は西側が入口だったと、思います
東側 現在の なら仏像館の入口
さらに西側もう一枚
(奈良公園情報サイト)堂々とした写真写り?から見てももやっぱりこっちが正面だね
Googleマップで見てみても
西側が公園みたいに設計されてるし、
やっぱり西側が入口ね
「推古天平室」以外の部屋はわかりませんが、この室が、中央にあったことは間違いないんでしょう
もう一度いいますが
聖林寺十一面観音像は
奈良博物館の階段 をのぼってすぐの、まず正面に立っていたのです
これにより、聖林寺十一面観音が与えた印象は強烈になったと思われます
( 写真、JR東海より)
当時を思い出して、、、
「まあ、あの頃は、僕が一番真ん中に展示されていたわけだからねぇ、、
そりゃみなさん、一番注目してくれたよ・・・ふふ 」
そして、この条件下での印象を一番の根拠に、和辻『古寺巡礼』の聖林寺部分は記述されたのではないかと思います
ここで、2点ほど、細かいけど注意点
『古寺巡礼』は度々の改訂を加えられているようですが、今手元にある最新版『初版 古寺巡礼』(ちくま学芸文庫2012年←最新版なのに初版って、ややこしいだろがっ ) の解説を読む限り、奈良博物館、聖林寺十一面あたりの記述は、改訂されていない ようです
次の記事にUPします~(*^-^)b
あ、それから、上の星印 のところについて(忘れるところだったわ…(*^.^*))
「百済観音」という呼び方は、和辻『古寺巡礼』からの新しい呼び名であるという話 もあるようなんですが (なーんだ、案外新しいじゃん?)、これについては、そのうち書くかもね…忘れなければ、たぶんえへっ
…と、多少くどいですが
西側が当時の玄関と考えて話を続けます
「推古天平室」以外の部屋はわかりませんが、この室が、中央にあったことは間違いないんでしょう
「推古天平室」内部は、先の和辻氏の文によれば、
こんなレイアウトになりますね(たぶんだいたい、、ね ちょっとは違うかもしれないけど、、ね )
こんなレイアウトになりますね(たぶんだいたい、、ね ちょっとは違うかもしれないけど、、ね )
(わかりやすいように、90度回転させてみましたので、上が東方向になります)
そりゃ、華々しいデビュー?だよね ある意味
しかもなんですか、取り巻く仏像の、この豪華さは!
つまり、聖林寺十一面観音は、
(日本を代表する仏像がいっぱいある) 奈良にあって
(国宝級の文化財をたくさん展示する) 奈良博物館の展示のセンターの場所に
安置されていた ということになりますね
(日本を代表する仏像がいっぱいある) 奈良にあって
(国宝級の文化財をたくさん展示する) 奈良博物館の展示のセンターの場所に
安置されていた ということになりますね
そりゃ、華々しいデビュー?だよね ある意味
しかもなんですか、取り巻く仏像の、この豪華さは!
もう一度いいますが
聖林寺十一面観音像は
奈良博物館の階段 をのぼってすぐの、まず正面に立っていたのです
これにより、聖林寺十一面観音が与えた印象は強烈になったと思われます
( 写真、JR東海より)
当時を思い出して、、、
「まあ、あの頃は、僕が一番真ん中に展示されていたわけだからねぇ、、
そりゃみなさん、一番注目してくれたよ・・・ふふ 」
そして、この条件下での印象を一番の根拠に、和辻『古寺巡礼』の聖林寺部分は記述されたのではないかと思います
ここで、2点ほど、細かいけど注意点
『古寺巡礼』は度々の改訂を加えられているようですが、今手元にある最新版『初版 古寺巡礼』(ちくま学芸文庫2012年←最新版なのに初版って、ややこしいだろがっ ) の解説を読む限り、奈良博物館、聖林寺十一面あたりの記述は、改訂されていない ようです
原文中「奈良博物館」とありますが、当時の正式名称は「奈良帝室博物館」だったようです
博物館の沿革についてはこちらをご覧ください
→奈良国立博物館のHP博物館の沿革についてはこちらをご覧ください
和辻氏の聖林寺十一面に関する具体的な記述内容と
それに、対する町田氏の記述は
次の記事にUPします~(*^-^)b
あ、それから、上の星印 のところについて(忘れるところだったわ…(*^.^*))
「百済観音」という呼び方は、和辻『古寺巡礼』からの新しい呼び名であるという話 もあるようなんですが (なーんだ、案外新しいじゃん?)、これについては、そのうち書くかもね…忘れなければ、たぶんえへっ