明日香3~鬼や亀の石造群、大鳥に例えられた山 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp


鬼の俎・雪隠
に着きました


まずは鬼の雪隠(せっちん、トイレ)
トイレってどういうこと?
photo:01
これはトイレに向かう通路
トイレはこの先の石の部分です


宮内省管理なのは、この石がもともと古墳の石室の一部だったからです

「鬼のトイレ」

「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ~強いぞ~ 」っていう歌がありましたが、
「鬼のトイレはいいトイレ、管理は~宮内庁♪」な訳です

まあ、殿方のトイレに見えなくはないし、宮内庁の看板立つまでは
きっと何人かはここで用足ししたんじゃないのかしらねぇ
photo:02
これが古墳の石室の蓋の部分でもともとこの斜面の上にあったものが
くるんくるん とひっくり返って、斜面を転がり止まったんでしょうね~f^_^;

説明版
photo:03


道を挟んで雪隠の反対側、小高くなっているところに鬼の俎(まないた)があります
photo:04
もともとこの古墳はこの位置にあったんでしょうかね?
果たして被葬者は誰だったんでしょうか?
先ほどの雪隠と一組で終末期古墳の石室だったわけですが

「鬼がこのまな板で料理をして、雪隠で用を足した」

というお話の方が面白いわねー、たしかに



さて、鬼の俎・雪隠を過ぎると道の右手に
天武・持統天皇陵が見えてきます

天武天皇と持統天皇の合葬された陵
持統天皇は、天皇として初めて火葬された方です
photo:06
この陵墓大きいけど、遊歩道からだとわかりにくいです
なぜか遊歩道にこれといった道標がないの
ただの小山に見えちゃうやま からスルーしちゃいそうになる

鬼の俎を過ぎたらすぐ右手の小山ですよ


陵墓の中にはもちろん入れませんが、周囲をぐるりと回ることはできます
photo:07


陵墓の正面が自動車の道路側(遊歩道側からだと裏側になってしまって見えないのよね…)
photo:08
天武・持統陵をぐるりとまわったら
再び遊歩道にもどり、
亀石までしばらくはテクテク歩く…


そして、なんとなく到着
もしもし亀よ 亀石
photo:09
ぬぉーーーっとしていて、なんとも間抜けなこのお方

彫ってあるのは顔と前足?だけ

なんで顔の周りしか彫ってもらえなかったんだろうね?
石は固いからなあ

彫り続けたら
林家ペーみたいなパンチパーマのおじさんパンチパーマ とか、
ハリネズミねずみ とか、
キミの可能性はほかにもあったかもしれないのにね?
(ろくな可能性じゃないか?むしろ亀 で万々歳かな?)


photo:10
↑この伝説が面白い
書き抜きます
「昔、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまった。湖にすんでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。
 今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。」


なんか、この亀、もうそんなこと忘れちゃってるわよ、きっと


亀石からさらに東に遊歩道を歩いていくと、こんな石碑を見つけることができます
道の右側に、橘寺までの参道が始まる場所です
橘寺の門の屋根のてっぺんが写真奥に少し写ってます

photo:01
この石碑、そんなに古くはないかもしれないけど、そこそこ古そうで(どっちやねん?わからん)、「聖徳太子生誕地」と刻まれていますね


橘寺は聖徳太子ゆかりの寺です


ここから遊歩道を右折して、橘寺方向を向くと、橘寺の石の門(簡単な門だなあ)

photo:02



門の手前には、新しそうな万葉歌碑がありました
柿本人麻呂の長歌ですね
photo:03
柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に泣血哀慟して作る歌

うつせみと思ひし時に 取り持ちて我が二人寝し 走り出の堤に立てる 槻の木のこちごちの枝の 春の葉の繁きがごとく 思へりし妹にはあれど 頼めりし児らにはあれど 世の中を背きし得ねば かぎろひのもゆる荒野に 白妙の天領巾隠り 鳥じもの朝立ちいまして 入日なす隠りにしかば 我妹子が形見に置ける みどり子の乞ひ泣くいとに 取り与ふる物しなければ 男じものわき挟み持ち 我妹子と二人我が寝し 枕づくつま屋の内に 昼はもうらさび暮らし 夜はも息づき明かし 嘆けどもせむすべ知らに 恋ふれども逢ふよしをなみ 大鳥の羽易の山に 我が恋ふる妹はいますと 人の言へば恋ひし妹が 玉かぎるほのかにだにも 見えなく思へば(万葉集巻二 210) 柿本人麻呂


いわゆる泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか)と呼ばれる長い挽歌です

万葉集巻二では、この長歌の前にももう一つ人麻呂作の泣血哀慟歌があって、そこでは「」(藤原京の西南)の妻を亡くした人麻呂がボー然として悲しんでいる様子 が詠まれています

そして、この長歌が続きます
その妻が、大鳥の羽易の山に葬られたというわけです

…よって、この長歌の中の「大鳥の羽易の山」というのは、どうも「軽」の里から東の山々を見て、言っているようなんですよね
なので、なんでここに歌碑が立つのかよくわかりません
軽はここよりもっと北にありますから

飛鳥のここで詠んだという説もあるのでしょうか?(ちゃんと調べればいいんだけど…ま、そのうち

どちらにしても、「大鳥の羽易の山」は
山の辺の道方面の、三輪山を中心に、龍王山巻向山の稜線を大鳥が羽を重ねる様子に似ていて、それを表現した言葉らしいです

では実際ここから三輪山方面の大鳥の羽易の山はどう見えるのか?
写真を撮ってみました


はい、よく見てください
 
photo:04
うーーーーーーーん よく、わからん・・・・・・・




では、説明版
photo:05
つまり、真ん中にきれいな円錐形の三輪山が見つけられれば、その左右が翼ということになるのね…Oo。。( ̄¬ ̄*) フムフム、なるほど?


ではもう一回
photo:06
↑ 写真中央の円錐形が三輪山、その両側に翼を広げたような、龍王山、巻向山

大きな鳥が羽を広げているように見えましたか?




はいでは次に行きま~す
photo:07
橘寺が見えてきました

つづく