第十話 五代目誕生

母は午年生まれです。今年で九十六歳。

今は施設で暮らしていますが、元気にしています。

そして今年の夏、我が家に孫が生まれます。これも午年です。

祖父の駅前旅館から始まったこの家の宿。

祖父。父。私。次男。気がつけば子年、子年、卯年、卯年と
四代続きました。

そして丙午の今年、メイン通りの小さな宿に五代目が生まれます。

旅館というのは建物だけで続くものではありません。

人がいて、暮らしがあり、少しずつ形を変えながら続いていくものだと思います。

この宿の物語もまだ続いていきます。


あとがき

奈良の町は、ゆっくり時間が流れる場所です。

奈良公園 を歩く人も、東大寺、興福寺 、春日大社へ向かう人も、
どこか落ち着いた足取りで歩いています。

それらに向かう途中に、私たちの小さな宿があります。

祖父が始めた旅館。父の旅館。そして私の旅館。

気がつけば長い時間が流れました。

奈良の町も少しずつ変わりました。旅の形も変わりました。

それでも旅館という仕事は、人を迎える仕事であることは変わりません。

遠くから来た人が、奈良の一晩を過ごす場所。

その一つが、この宿です。

そして今年、五代目が生まれます。

この宿の物語は、
まだしばらく続いていくようです 


奈良道

振り返ってみると、

私は奈良で生まれ、奈良で育ち、奈良の町の中でずっと暮らしてきた。


若い頃は餅飯殿の商店街で子供服の店を手伝い、やがて店を閉めることになった。

その後は家の旅館の仕事を継ぎ、二十室ほどの小さな宿を営んだ。


旅館の形も時代に合わせて変えていった。

食事付きの旅館から仕出しを使う形になり、最後には素泊まりのビジネス旅館になった。

当時は珍しい形だったが、それも一つの時代の流れだったのだと思う。


私はもともと大きく儲けようという気持ちはあまりなく、

どちらかと言えば健康で静かに暮らすことの方を大事にしてきた。


若い頃から好きだった自転車は、長い間私の趣味として続いた。

青春十八きっぷを使った輪行の旅や、山歩きなども楽しんだ。


妻と二人でフルムーンパスを利用して国内旅行をしたこともある。

また、シーズンオフの海外ツアーで世界遺産などを巡る旅も楽しんだ。

しかしコロナ以降は海外旅行はやめ、国内の旅をゆっくり楽しむようになった。


こうして振り返ってみると、特別なことを成し遂げた人生ではなかったかもしれない。

それでも、自分なりに考えながら、その時々の道を選んで歩いてきたつもりである。


店のあった商店街の景色も、町の人の顔ぶれも、昔とはずいぶん変わった。

しかし奈良の町は、今も変わらず静かな時間を流している。


これからも健康に気をつけながら、奈良の町で静かに暮らしていきたいと思っている。



第七話 メイン通りの宿

私の旅館は奈良のメイン通りにあります。

場所は奈良駅と興福寺のちょうど中ほどです。

奈良を歩く人は、多くがこの道を通ります。

奈良公園へ向かう人。東大寺、春日大社へ向かう人。

最近では外国からの旅行者も増えました。

旅館をしていると、いろいろな人と出会います。

一人旅の人。夫婦で来る人。長く奈良を歩く人。

そういう人たちがこの小さな宿に泊まります。

旅館という仕事は、人の旅の途中にある場所なのだと
思うようになりました。


第八話 次男が残った理由

家族には二人の息子がいます。長男は独立して別の道を歩きました。

次男は長く家に残りました。

私は旅館を一人でも続けられる形に変えていました。

食事をやめたのも、そのためでした。

もし将来、誰も継がなかったとしても一人で経営できるように。

しかし人生は思い通りばかりではありません。

結婚が遅かった次男でしたが、やがて家庭を持ちました。

そして今はこの旅館を継いでくれています。

親としてはありがたいことだと思っています。


第九話 干支の不思議

我が家には少し不思議な干支の並びがあります。

父は子年。母は午年。私は卯年。嫁と妹は酉年。

そして子供たちも
三年ごとに生まれました。

長女は酉。長男は子。次男は卯。

こうして振り返ると、何か形のようなものが

できているようにも見えます。

祖父も父も子年でした。

家の流れというのは、こういうところにも表れるのかもしれません。

第四話 イヤイヤ手伝った旅館

昭和の終わりに旅館が建った頃、奈良はまだ団体旅行の時代でした。

観光バスが何台も町へ入り、学生の修学旅行もたくさん来ていました。

私の旅館も例外ではありません。大きな荷物を持った学生たちが
玄関に並びます。食事の時間になると食堂はにぎやかになります。

当時の旅館は夕食朝食仲居さんという、いわゆる観光旅館の形でした。

しかし正直に言えば、その頃の私はまだ旅館という仕事に
気持ちが向いていたわけではありませんでした。

どちらかと言えば「手伝っている」という感覚でした。

自分で始めた商売ではなかったからです。

しかし旅館という仕事は、不思議なものです。

毎日いろいろな人が来ます。遠くから奈良へ来た人。
修学旅行の学生。仕事で泊まる人。

そういう人たちを見ているうちに、少しずつですが

旅館という仕事の面白さを感じるようになっていきました。

とはいえ、その頃の私はまだこの旅館をどうするのか
深く考えていたわけではありませんでした。

転機は、結婚してから訪れることになります。


第五話 結婚と旅館の転機

旅館が大きく変わるきっかけは結婚でした。

それまでの私は、どちらかと言えば「手伝っている」という気持ちでした。

しかし結婚すると考え方が変わります。

この旅館は自分たちの生活の場所になる。そう思うようになりました。

そこで妻と二人で、この旅館をどう続けていくか考えるようになりました。

しかし旅館の経営は簡単ではありません。

建物の維持費。固定資産税。いろいろな出費があります。

そこで私たちは旅館の形を少しずつ変えていくことにしました。

まず、建物の前にあった車を止めるスペースをテナントとして貸すようにしました。

少しでも安定した収入を作るためです。

こうした工夫をしながら、私たちは約十年かけて
旅館の形を変えていきました。

今思えば、この十年が旅館の運命を決めた時間だったのかもしれません。

そしてもう一つの大きな決断がこのあと待っていました。

それは旅館の食事をやめることでした。


第六話 食事をやめる決断

旅館を続けていく中で、私たちは大きな決断をしました。

旅館の食事をやめることです。

昔の旅館は夕食付き朝食付きというのが当たり前でした。

しかし食事を出すということは、それだけ人手も必要になります。

仕込みもあり、後片付けもあります。

家族だけで続けるには、少しずつ負担が大きくなっていました。

そこで私たちは考えました。旅館は「泊まる場所」であればいいのではないかと。

奈良の町には食堂もあります。居酒屋もあります。喫茶店もあります。

お客さんは外で食事を楽しみ、宿ではゆっくり休む。

そんな形でも良いのではないかと思ったのです。

こうして私たちは「食事なし」「持ち込み自由」「門限なし」

という形の宿に変えました。

当時はまだ珍しい形でしたが、この決断が旅館を長く続けることにつながりました。

第一話 祖父の駅前旅館

この話の始まりは、私の祖父です。

祖父は駅前で旅館を営んでいました。

昔の奈良は、今とは少し違いました。

奈良へ来る旅人は、まず駅に降ります。そして駅の近くの旅館に泊まる。

そんな時代でした。

祖父の旅館も、多くの旅人を迎えていたようです。

観光客。商売で来る人。奈良を訪れるさまざまな人が宿に泊まりました。

当時の旅館は、今よりも人の出入りが多く、とてもにぎやかな場所だったと聞いています。

私はその頃まだ子供でしたが、旅館という仕事が人を迎える商売だということだけは
なんとなく感じていました。

祖父の宿から始まったこの家の旅館は、やがて父の時代へと続いていきます。

そして祖父は、父のために一つの決断をすることになります。

それが父のための旅館を建てることでした。


第二話 父のために建てられた旅館

祖父の旅館はよく見かける駅前にありました。

奈良へ来る旅人が最初に降りる場所です。

その駅前で祖父は長く旅館を営んでいました。

しかし祖父は、ある時一つの決断をします。

父のために、もう一つ旅館を建てることにしたのです。

昔の旅館には、よくそういう話がありました。

商売がうまくいくと本館のほかに別館を建てる。

そして息子に任せる。

祖父も同じように、父に一軒の旅館を任せようと考えたのでしょう。

こうして父の旅館が生まれました。

祖父の宿と、父の宿。

同じ家から二つの旅館が生まれたことになります。

やがて時代が進み、祖父の旅館は父の弟の家へと引き継がれました。

今もその旅館は駅前にあり、私の従兄弟が守っています。

私はその従兄弟より年上ですが、
旅館としてはそれぞれ別の流れになりました。

祖父の宿の流れ。そして父の宿の流れ。

私が関わることになるのは、父の旅館のほうでした。

しかしその頃の私は、まだ旅館を継ぐつもりなどほとんどありませんでした。

それどころか、後になって建てられることになる自分の旅館には、
強く反対することになります。

その話は、もう少し後になります。


第三話 昭和55年、私は反対していた

父の旅館の流れを受けて、やがて私の時代が来ることになります。

しかし私は、旅館を新しく建てることに最初から賛成していたわけではありませんでした。

むしろ、強く反対していました。

理由ははっきりしています。旅館を建ててしまうと、その土地はもう自由に使えなくなるからです。

建物は簡単には壊せません。固定資産税もかかります。維持していくのも大変です。

若かった私は、そんな大きなものを背負う覚悟がありませんでした。

しかし祖母には、強い願いがありました。「この家に、もう一つ旅館を残してほしい」

祖母はどうしても、宿を続けてほしかったのです。

その願いを聞き、両親は建設を決めました。

こうして昭和55年、駅と有名寺の間を結ぶ
メイン通りに旅館が建ちました。客室は二十室。

鉄筋の建物でした。当時はまだ団体旅行の時代です。

観光バスが奈良へ来て、修学旅行の学生が泊まり、
旅館はにぎやかな場所でした。私はその旅館を、手伝うことになりました。

しかし正直に言えば、その頃の私はイヤイヤ手伝っていたというのが本当のところでした。

自分が望んで始めた旅館ではなかったからです。ところがこの旅館は、

このあと私の人生を大きく変えることになります。

五代目誕生

私は旅館を建てることに反対だった

― メイン通りの小さな宿 四代の物語


プロローグ 五代目が生まれる夏


私は、旅館を建てることに反対していました。

一度建ててしまえば、もう土地を自由に使うことはできません。


固定資産税もかかるし、建物の維持も大変です。


若かった私は、

そんな重いものを背負う覚悟がありませんでした。


しかし祖父の強い願いがありました。


「旅館を建ててほしい」


祖父はどうしても、

この家にもう一つ宿を残したかったのです。


その願いを聞き、両親は決断しました。


そして昭和55年、

メイン通りに旅館が建ちました。


それから長い時間が流れました。


祖父が駅前で戦後すぐ始めた宿。

父の旅館。そして私が。


気がつけば、

四代の流れになっています。


そして今年の夏。


我が家に孫が生まれます。


丙午の夏です。


旅館にとっては

五代目の誕生になります。


メイン通りの小さな宿が

どのように続いてきたのか。


少しずつ書き残してみようと思います。

序章 奈良の町から


私は奈良で生まれ、奈良で育った。

家は奈良の繁華街にあり、両親は餅飯殿の商店街でベビー子供服の専門店を営んでいた。

奈良の町は昔から観光客が多く、商店街にはさまざまな店が並び、人の往来が絶えなかった。

私はそんな町の空気の中で育った。

学生時代の詳しいことはここでは書かないが、若い頃から自転車が好きだった。

中学・高校の頃には友人と自転車で旅をしたことがある。

その経験が、後に続く私の人生の「旅好き」の始まりだったのかもしれない。

二十歳を過ぎてからは、家の商売を手伝うようになった。

ここからが私の本当の人生の始まりである。


第一部 洋品店時代(20〜40歳)


第1章 家の商売

両親の店は餅飯殿の商店街にあった。

ベビー服と子供服を扱う店で、町の人にはよく知られていた。

私は店の手伝いを始め、やがて本格的に働くようになった。

仕事は地味なものが多い。

朝はシャッターを開け、店先と店内の掃除をする。商品に値段を付け、飾り付けを整える。

お客が来れば試着を手伝い、閉店後には片付けと掃除をして一日が終わる。


第2章 店の一日

店は朝十時に開き、夜八時まで営業していた。後には六時閉店になった。

昼は店員の女性二人が交代で食事に行き、その後で私は外食に出かける。

後には給食弁当を取るようになった。

土日や春休み、ゴールデンウィーク、年末などは忙しく、店の中は賑やかだった。


第3章 商店街のにぎわい

餅飯殿の商店街には喫茶店もあり、映画館などの娯楽施設も近かった。

人の流れは通りによって違い、商売の様子も時代によって変わる。

小西通りは最初さびれていたが、近鉄奈良駅が地下になってから賑わい始めた。

三条通りも徐々に人が増えていった。


第4章 町の変化

駅に近い通りは次第に栄えていったが、駅から遠い餅飯殿は人通りが少しずつ減っていった。

商店街の将来は、何となく見えてきた。

時代の流れというものは、個人の努力だけでは変えられない。


第5章 店を閉じる

もう一つ気になっていたのは、子供の数が減り始めていたことである。

子供服の商売は、将来必ず厳しくなると思った。

私は同業者の中ではかなり早く店を閉めた方だったと思う。

在庫整理もまだ楽な時代で、結果的には良い判断だったのではないかと思っている。


第二部 旅館時代(40〜60歳)


第1章 家の旅館へ

祖父は奈良のメイン通りで旅館を始めていた。

それを両親が継ぎ、私も商店街の店を辞めてから旅館の仕事に入ることになった。

客室は二十室ほどの小さな旅館だった。


第2章 食事付きの旅館

最初の頃は、普通の旅館と同じように夕食と朝食を出していた。

料理の準備や配膳で台所は忙しく、商店の仕事とはまた違う大変さがあった。

第3章 旅館の形を変える

次の段階では、食事を仕出し屋に頼む形に変えた。

旅館の仕事も時代に合わせて変えていく必要がある。

無理をせず、出来る形で続けることが大事だと思っていた。


第4章 ビジネス旅館

やがて食事を完全にやめ、素泊まり専門の旅館に変えた。

当時はまだ珍しかったが、電話帳には「ビジネス旅館」として載せた。

持ち込み自由、門限なし、そして光明石温泉の風呂。

これがうちの特徴だった。


第5章 仕事と趣味

私は元来、あまりお金を使う方でもなく、儲けることにも強い欲はなかった。

その代わり、健康や体作りには早くから関心があった。

仕事の合間には自転車に乗ったり、山を歩いたりして体を動かしていた。


第三部 隠居時代(60〜80歳)


第1章 自由な時間

六十歳を過ぎると、仕事から離れる時間が増えた。

隠居生活は、健康を第一に考える生活になった。


第2章 自転車と輪行

自転車は若い頃からの趣味である。

隠居してからは、青春18きっぷを使った鉄道旅行と自転車を組み合わせた輪行の旅も楽しんだ。

列車で遠くまで行き、降りた町を自転車で走る。自由な旅だった。


第3章 妻との旅

妻と二人で国内旅行をすることも多くなった。

フルムーンパスを利用して列車で全国を巡る旅もした。

ゆっくりとした夫婦の旅である。


第4章 海外旅行

楽しみの一つは海外旅行だった。

シーズンオフの安価なツアーを利用して、各国の世界遺産などを巡る旅をした。

しかしコロナ以降は海外旅行をやめ、国内旅行を中心に楽しむようになった。


第5章 奈良の町で

振り返ってみれば、私は奈良の町で生まれ、奈良の町で仕事をし、奈良の町で暮らしてきた。

大きなことをしたわけではないが、自分なりに考えながら歩いてきた人生だった。

これからも健康に気をつけながら、奈良の町で静かに暮らしていこうと思っている。

第1章 商売を離れて

自由な時間

商売と旅館から離れ、時間を自由に使えるようになった。

健康第一

健康を重視し、体を大切にする生活を心がけた。

旅の計画

自転車や山歩きだけでなく、列車や飛行機を使った国内外の旅行も楽しむようになった。

特にシーズンオフを狙った安価な海外旅行ツアーは、隠居生活の新しい楽しみになった。



第2章 自転車

趣味の継続

子供の頃からの自転車趣味を隠居後も続け、体を動かすことを楽しんだ。

18切符と輪行の旅

全国の鉄道と自転車を組み合わせて巡る「輪行の旅」は、自由度が高く健康にも良い。

景色を味わう

遠くへ行くことが目的ではなく、風景や町の空気を楽しむことが最大の喜びだった。



第3章 山と散歩

自然との触れ合い

奈良の周囲の山を歩き、四季折々の景色を楽しむ。

健康の維持

山歩きは体力維持と心のリフレッシュに最適だった。

妻との国内旅行

結婚後は妻と二人で、フルムーンチケットを利用した列車旅や宿泊旅行を楽しむ。

国内の世界遺産巡り

季節に応じて、国内の歴史的建造物や世界遺産を巡る旅も行った。



第4章 気ままな時間

時間の自由

朝ゆっくり起きる日もあれば、早く出かける日もある。

海外旅行

シーズンオフの安価な海外ツアーを利用して、ヨーロッパやアジアの文化遺産を巡ることもあった。

のんびりとした生活

自転車や散歩、国内外の旅行、大好きなたこ焼きと酒を楽しむなど、自由で充実した時間を満喫した。



第5章 これまでのこと

振り返り

奈良の町で商売や旅館を営み、隠居生活では国内外の旅を楽しんだ。

人生の感想

大きなことを成し遂げたわけではないが、自分なりに考え、行動しながら生きてきた。

旅の思い出

自転車旅や輪行、フルムーン国内旅行、シーズンオフ海外旅行、世界遺産巡りなど、旅した時間は隠居生活の中で最も生き生きとした思い出となった。

今の生活

健康に気をつけ、自由に旅を楽しむ日々を、ありがたく思っている。

第一章 旅館へ


洋品店を閉じたあと、私は家の旅館の仕事に入ることになった。


祖父が始めた旅館で、その後は両親が引き継いで続けていた。

場所は奈良のメイン通りにあり、客室は二十室ほどの小さな旅館だった。


商店街の店とは仕事の内容がまったく違う。お客が県内から県外でと変わる

掃除と準備は以前より多く、朝から夜まで忙しい仕事だった。


こうして私は四十歳頃から、旅館の仕事をすることになった。


第二章 食事付きの旅館


旅館を始めた頃は、普通の旅館と同じように食事付きの宿だった。


夕食と朝食を用意し、泊まりに来た客をもてなす。

料理の準備や配膳、後片付けなど、食事に関わる仕事が多かった。


旅館というのは宿泊だけでなく、食事も大きな仕事である。

忙しい時期には、台所もかなり慌ただしくなる。


そんな形の旅館を、最初の十年ほど続けていた。


第三章 仕出しの時代


しかし旅館の仕事も、時代とともに少しずつ変えていくことになった。


食事の準備には手間も人手もかかる。

そこで食事を仕出し屋に頼む形に変えた。


客には食事を出すが、旅館の台所で作るのではなく外から取り寄せるのである。

こうすることで仕事は少し楽になり、宿の運営も続けやすくなった。


旅館という仕事も、時代や状況に合わせて形を変えていく必要があると感じていた。


第四章 ビジネス旅館へ


その後インバウンドも加わり、私はさらに思い切った形に変えることにした。


食事を完全にやめ、素泊まり専門の旅館にしたのである。

当時は食事のない旅館というのはまだ珍しく、少し変わった形だったと思う。


私はそれを「ビジネス旅館」として営業することにした。

電話帳にもその名前で載せた。「持込自由」「門限無」

そして風呂には光明石温泉を導入して「温泉有」と書いた。

簡単な三言だったが、それが旅館の特徴になった。


第五章 区切りの時


旅館の仕事はおよそ二十年余り続いた。


私はもともと、お金を大きく儲けようという気持ちはあまり強くなかった。

それよりも健康で暮らすことの方が大切だと思っていた。


仕事の合間には、自転車に乗ったり山を歩いたりすることもあった。

旅行も行き、体を動かすことが好きだったのである。


そして六十歳を迎える頃、私は旅館の仕事にも区切りをつけることにした。

こうして長く続いた商売の生活を終え、早々と隠居の時代に入ることになった。

第一章 家の商売


私の両親は奈良の繁華街で、ベビー服と子供服の店を営んでいた。

場所は餅飯殿の商店街である。昔から続く商店街で、奈良の町の人にはよく知られた通りだった。


店はそれほど大きくはなかったが、子供服の専門店として長く商売をしていた。

私も若い頃からその店を手伝うようになり、やがて本格的に店に入ることになった。


店の一日は、まずシャッターを開けることから始まる。

店先を掃き、店内を掃除し、商品に値段を付け、季節に合わせて飾り付けをする。

開店は朝十時、閉店は夜八時だった。


営業中はお客の試着の手伝いをしたり、売り場を整えたりする。

夕方になるとまた店内を片付け、掃除をしてシャッターを閉める。

それが毎日の仕事だった。


商店街の店というのは、派手な仕事ではないが、同じことを毎日きちんと続けていく仕事である。

私の二十代は、そうした店の仕事の中で過ぎていった。


第二章 店の一日


店の仕事は、毎日ほとんど同じことの繰り返しだった。

朝はシャッターを開け、店先と店内を掃除する。

それから商品の値段付けをしたり、季節に合わせて飾り付けを整える。

開店は午前十時で、夜八時まで営業していた。


営業中は、お客の試着を手伝い、売れた商品の片付けをする。

子供服の店なので、子供を連れた母親が多く来店する。

店の中はときには賑やかだった。


昼食は、店員の女性二人が交代で食事に出かけ、その後で私が外へ食べに行くという形だった。

後には給食弁当を取るようになり、店で食べるようになった。


夜になると店内を整え、掃除をしてシャッターを閉める。

それが一日の終わりだった。


第三章 商店街のにぎわい


餅飯殿の商店街は、昔から奈良ではよく知られた通りだった。

季節の変わり目の土日や、春休み、ゴールデンウィーク。

そして年末になると通りはかなりの人出になる。


近くには喫茶店も何軒かあり、映画館などの娯楽も歩いて行ける場所にあった。

買い物のついでに寄る人も多く、商店街としてはなかなか活気があったと思う。


子供服の店では、季節ごとに商品が変わる。

春や秋の衣替えの頃には忙しくなり、店もにぎやかになった。


そうした日々の中で、私は長い間店の仕事を続けていった。


第四章 商店街の変化


しかし商店街の様子も、少しずつ変わっていった。


近鉄奈良駅が地下化されてからは、人の流れが変わり、小西通りのあたりはにぎわうようになった。

一方で三条通りも次第に店が増え、通りとして活発になっていった。


駅から遠い餅飯殿の通りは、どうしても人の流れが少なくなってくる。

商店街というものは、立地によって盛衰がはっきりするものだと感じるようになった。

その頃から、私はこの先の商売について少しずつ考えるようになっていた。


第五章 店を閉じる決断


子供服の店を続けながら、私は一つ気になっていたことがあった。

子供の数がだんだん減っていくことである。

将来は少子化になるのではないかと、何となく感じていた。

子供服の商売にとっては、大きな問題になると思えた。


商店街の人たちの中では、私が店を辞めたのはかなり早い方だったと思う。

しかし今思えば、その頃に決断してよかったとも感じている。

在庫整理などもまだそれほど大きな負担にはならない時代だった。


こうして私は、二十年ほど続けた子供服の店を閉じることにした。

そして次の仕事として、家の旅館を手伝うことになる。

  トラトラトラ




 

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マンホールカードを求めて動くと

思いもかけない観光地を掘り起こせる

非日常の旅。目的地のハッキリしない旅

そんな旅をして見たい。自由気ままに。

2022.03.18

 

2021年 古希

2022年 虎 白虎  タモン中学 

子が寅の子授かる

2023年 卯

親父27回忌 3月4日

クルーズ船(4/8~7/24)神戸発 中止

2024年 辰  青龍  多々良中学

2027年  サラサ中学

2028年 喜寿(汰門二十歳)

2029年 鳳凰 七十八歳 朱雀 

親父33回忌

2030年 湊中学 90万円終わり

2032年 櫂飛中学

2035年 ○○中学

2039年 米寿(櫂飛二十歳)ここまでは生きていたい