父が亡くなってから一ヶ月が経ちました

一般的に5年が経過したら完治と言われる癌が再発したのはその丸5年が経とうとした頃

腎臓がんは骨に転移しやすいらしい

年末から首が痛いと言い出した父が年明けすぐに頸骨に癌が見つかり同時に肺への転移も見つかった

細かく広がり手術はできなかった

放射線と抗がん剤と

数値が良くなることはなく再発が見つかったときからかなりの早さで進行した

入院と退院

転移はあちこちに見られた

数値からすると先生たちが驚くほど父は元気だった

常に痛みは訴えたけどほとんど最後まで自分で歩いたし最後まで自分で考え話していた

本当に最期の十日間ほどで急激に悪くなった

 

再発してから今年の私の最優先は父だった

通えるだけ病院に通い実家に通った

子供というのは親というものはいつまでも元気で生きていると思ってしまう

自分が歳をとっても親が老いることにどこか実感がない

父も母もとても元気な人だから

10年後も20年後も親は元気でそこにいると思ってしまっていた

最初の癌のときもほかのときも手術をし必ず元気で帰ってきていたし、どこか現実めいて親が本当にいなくなるとは思っていなかった

だけど、今回はさすがに覚悟をせざるをえなかった

最後まで覚悟なんてまったくできてはいなかったけれど

 

私は父がとても好きだ

父はいかにも姉妹の娘の父親でとてもやわらかい優しい人だ

子どものころから反抗期というか父を嫌った時期はない

大学生や社会人になってからもあちこちいっしょに出掛け、私と話したくて自室に来ては写真立てなんかをのぞき込み、この友達だれ?なんて聞かれたりしたけど、そんな父もかわいかった

バレンタインは毎年心待ちにしてくれていたし、父の日には腕を組んでデートも楽しかったね。母もよく付いてきたけど笑

今でもふらりと一人で出店先に来てくれることもあった

父はちゃんと楽しみ方を知っている人で、私のブースを覗きに来るというよりは、イベントそのものを楽しんでお店を一つ一つのぞいて歩き、気にいった本や雑貨をひとつふたつ買って、母へのお土産のお菓子を提げてさらりと帰っていった

 

登山が趣味だった父と子どもの頃からあちこちの山に登った

100キロハイクなんてこともやる父の「ハイキング」はハードで、今回は近いからと誘い出されて結果何十キロと歩き、騙されたーとグダグダ言いながら帰ることもあったけど、それでもやっぱり楽しかった

仕事を退職してからもいくつかの歩く会に入り年中あちこち歩き回っていた

私からすると歩く距離?!と思えるようなところまで

そんな健脚な父のところへも病魔はやってくる

いろいろな検診もまめに通っていたのにそれでも前触れもなくやってきてしまう

 

我が家にはいつも犬や猫がいて父とよく犬の散歩にいった

平城宮跡は天然のドッグランで全力で犬が駆け回るなかたくさん話もした

平城宮跡までの道は私の小学校の通学路でもあり、このあたりの風景は今もほとんど変わらない

大極殿や朱雀門はなかったけれど

道の途中にあったグミの木

今思うと誰かの家の敷地内にあった木だったけれど、柵もないからこどもにはわからなくて学校帰りによくその実をとって食べた

ポケットにいっぱい詰め込んで実がポケットのなかでつぶれて母に怒られたな

入院中によく持って行った皮ごと食べられる種なしのぶどうがそのグミの味に似ていてそんなことを思い出した

果物を好んだ父は入院中も毎日くだものを食べた

一番よく食べたのは苺。それもあまおう指定。笑

それからぶどう、デコポン。食べたいと言っていたスイカがようやく出てきて最初に持って行ったときは喜んでくれたな

でももうひとつ食べたがっていた桃の季節には間に合わず缶詰の桃で我慢してもらっちゃったな

お中元に桃が届くとよくそれを提げて私の家まで歩いて持ってきてくれたな

今年は桃の季節になったら私が持って実家に行かなくちゃね

父が最後に食べたのはおそらくほんの小さなかけらの二かけのスイカ

 

私が父と交わした最後の会話はなんだっただろう

その日は先生との話があって、告知をしなかった父は勘が良くていろいろな会話や態度に気を回すから先生との話があることに気づかれないように、でもその時間が迫っているからちょっとそっけなく病室を出てしまった気がする

いつもなら、また明日ね、と父の手の握る

でもその翌日用事があって病院に行くことができないとわかっていたから、また明日ね、ではなく、じゃあパパ、またね、と言った

また明日ねと言えなかった

そしてその翌日、私自身が高熱を出して二日間寝込み、三日目にまだ体調の悪さを引きずってもう一日休もうかな、と思っていた矢先、病院の母から電話があった

間に合わなかった

少し様子がおかしい、と思ってからあっと言う間だったという

あれほど最優先に、と思っていたのに、私はそばにいることができなかった

私が手を握った父は三日前となんら変わりなく見えたというのに

 

最後のほうはかなりせん妄もひどかったが、それでもなにげない普通の会話もいっぱいした

くだらないような軽口を父はよく言う

父といっしょにすごした最後の日だろうか、その前日か前々日か、口数が少なくなっていたし身体を拭くことも嫌がっていたが、果物を食べた口を拭こうしたとき、口元に当てた濡れタオルを自分でつかんでごしごしと顔をこすった

めずらしく気分のよさそうな行動に、母がもうちょっと拭こうかとおでこから頭のほうもくるりと拭いて、ほら、男前になったわー、と言ったら、元から男前やからな、と返した

私と母が、そうやな、そうやったわ、と笑ってたら、若い女性の看護師さんがなぁに?と聞いてきたので顛末をちょっと話したら、看護師さんも、そうやんねーもともと男前さんやもん、合わせて返してくれ、父がもうええねん、とちょっと照れて横を向いたのがかわいかった

 

父と母はとても仲がいい(母は父に対してツンデレだが)

ちょっと実家が複雑だったからか、だんちゃんは結婚前からよく、うちの両親を指して「お父さんとお母さんみたいな夫婦になりたい」と言ってくれていた

そして「お父さんはほんまおまえにどろ甘やな」ともよく言う

確かに父は末っ子の私に甘い。だけど、父が甘えているのは母だ

私が病院から帰るとき、今日はもう帰るね、と父の手を握ると、そうやな、気をつけて、と手を振ってくれる

だけど、母が、今日はもう帰るね、と父の手を握ると、もう帰るんか、と、拗ねたように横を向いてしばらく手を離さなかった

 

母の誕生日や結婚記念日には必ず花束を抱えて帰ってきた

(夫とはそういうものかと思っていた私は結婚して後、あれ??となる笑)

子供たちが実家を離れてからは二人で結婚記念日にホテルディナーを楽しんだりあちこちへと旅行していた

来年には金婚式だった

先日、実家で父の遺品を整理していた時、父の免許証入れから四隅がボロボロになった一枚の写真を見つけた

私が初めて見る、若かりし日の、スーツ姿の父と着物姿の母が二人で写った写真

母に聞くと、おそらく結婚前のお正月に母の実家の前で写したものだという

母もそんな写真を父が持ち歩いていたことは知らなかった

50年近くもの間、父が常に持ち続けていた、ただ一枚の写真

 

 

世代柄、仕事一筋人間だった父が退職後、どうするのだろうと思っていたけれど、社交的な父は手帳が時間単位で埋まるほど、実に活動的だった

様々な生涯学習、歩こう会、地域ボランティア。小学生通学路の見守り隊。

勉強好きな父はいろいろな資格試験も受けたりしていた

父が絵を始めたのには驚いた

父が絵に興味があるとは露とも思っていなかったが、最初は母を誘って市民講習から。それが期間が終わると新たな教室を見つけてきて通った

季節折々の絵を描き、今年の年賀状にもポインセチアの赤い花の絵を描いていた

 

先日、母と話していて、絵の教室はどうするの?と聞いたら、来月あたりから少し行ってみようかなと思う、と言っていた

母には友達も少なくはないし、ご近所の付き合いも厚い地域だが、やっぱりまた違ったこんな距離感でのお付き合いも大切かも、と

そう思うとこれも、父が母へ残してくれたものなんだな、と思う

昨年末に実家をリフォームし、父はほんの一月ほどしか過ごせなかったけれど、それもまた母のために父がしておいてくれたことなのかもしれない

 

母が、これからはあなたが使いなさい、と手渡してくれた、父の腕時計

私が就職した最初の年、自分が勤めていた商社で時計の担当だったこともあり、父と母に揃いでプレゼントしたものだ

父も母も今も使ってくれている

細かな傷はあるものの、とても綺麗に手入れされ、今も変わらず正確に時を進めている

 

特に先月は父のためだけに動いた毎日だった

今月は母のために動いてきた毎日だったように思う

もちろん、それは続くけれども、やっぱりしっかり生きていかないとね

父と母のくれた人生を、自分で作っていかないとね

 

ありがとう。の感謝。

は、もちろんだけど、今だにとんでもない甘えただから

やっぱり一番に出てくるのは

パパ、大好き。