スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であるスマナサーラ長老の法話を聞いて

 

※以下、動画より一部を抜粋。あと個人的な感想です。

 

>脳というのは幻覚を作る組織なんです。 ブッダの瞑想は(いかなる幻覚も作る)この幻覚を作る機能を壊すんです。 いくつかの瞑想はあるが、もう自然にヴィパッサナーの方向になるんです。

 

認識は既に虚構であり、真実ではないということ。

私たちの思いや願望、貪瞋痴といった煩悩からいくらでも幻覚・妄想は生じてきます。

もちろん瞑想中にもいくらでも幻覚が生じてくることはあり得る。

 

>仏教の瞑想の場合は、いま自分が経験しているものに対して、取る価値があるのかと。執着するべき価値があるのかと見る。 見てみると価値がない、すぐ消えちゃったんだから。 あの経験もう一度欲しいと思っても出て来ないんです。 それで取るものは何もないんだから、専門用語で「あきらめ」という、いわゆる無価値であるということを理解するんですね。 それで心は無執着に。無執着でいたほうが楽チンだと理解して解脱に達するんです。 

 

例えば瞑想中の幻覚や神秘体験、変性意識状態や至高体験に執着すべき価値があるのか?と。

無常ですからねと。

自分にも経験がありますが、瞑想にそれを繰り返し求めるようになってしまい、でも二度とあの体験は得られないんです。

 

>サマーディ瞑想を教える場合は人の性格をチェックしなくちゃいけないんです。 ちょっとでも精神的な問題があると、良くないんですね。 元気で明るくて理性がある。 信じるんじゃなくて、疑って自分で確かめてやるという気持ちの人にとっては、瞑想は出来るんですね。 死随観の瞑想なんかは、あまりにも執着ある人にとってはトラブル起こす可能性あります。 瞑想がトラブルを起こすのではなくて、本人の煩悩が発作を起こしちゃうんですね… 

 

自分も統合失調症であり、服薬中であり、これは比較になってしまいますが、性格的に執着も強いのではないかと感じます。

また、瞑想中に鮮明な幻覚に伴い「怒り」が生じ、「怒り」の煩悩が意識(気づき)の力を凌駕して暴走して生きづらくなった経験があります。

 

>個人個人の性格に合わせて瞑想を教えること、現代はもう出来ません。 だから四念処経のヴィパッサナー瞑想よりも、誰にでもできるヴィパッサナー瞑想を教えてはいるんです。

 

そうなると個人個人の性格に合わせた瞑想指導であり、それは現実的に難しいのでしょう。

四念処経の第一、身随観にも出入息や不浄観などがあり、それら集中系の瞑想は(上記した私体験もふまえ)リスクもあり人を選ぶので、一般的には誰にでもできる安全な方法で教えられているということです。

「気づき」というのは大変重要な要素だと思います。

まず「気づき」の力を十分に育み、「気づき」の瞑想や「八正道」の実践によって、そうした現象に適切に対処できるようになるのではないかと思いました。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように✨