精子凍結保存 | 精巣腫瘍をめぐる冒険

精巣腫瘍をめぐる冒険

Ⅲ年b組 予後中間群

 2月21日 朝

 わたしは満員電車に乗っていました。いつもの通勤でも乗らないほどの満員電車です。こんなラッシュアワーに電車に乗っている人というのは、仕事や用事の為にどうしてもこの時間の電車に乗らなければならないという人達で、それ以外の人というのはいないものでしょう。かく言うわたしもそうなのでした。
 電車が揺れました。腰が痛みました。いや、立っているだけで右下腹部の傷口も痛みます。わたしは、身をこごめ、扉よこの手すりにつかまってなんとか立っていました。30分が過ぎました。40分が過ぎました。もっと込み合っている電車に乗り換えて、また10分が過ぎました。11分、12分、15分が、過ぎていきました。
 当然のことですが、誰もわたしが昨日退院したばかりのがん患者だとはわかりません。電車に乗り込むとき、わたしは、『それでいいんだ。そういうものだから。』と、思っていましたが、だんだんと体の様子がつらくなってはきていました。でも、こうも思いました。『この電車の中にも、当然、自分のような人が何人か乗っているのかもしれない。』そして、『今まで自分は健康だったから気がつかなかったものの、多かれ少なかれ皆病気を持ってるものなのかもしれない。』マスクをしている人の顔が、何人もわたしの目にうつりました。『本当のところは、この電車に乗っている人のほとんどは病気なのかもしれない。』この考え方は大げさでしたが、少しの間だけ、わたしの体の痛みを鎮痛してはくれました。
 やっと目的の駅に着きました。体があまりに痛いので、すぐにホームのベンチに腰掛けました。今電車をおりた人達が、皆階段のほうに消えていきました。『やっぱり皆わたしほど不健康ではないのかもしれないな。』体を休める暇つぶしにわたしはそう思ってみました。
 「え!?明日!?」
 「うん。」と、電話している家人が頷いています。
 「明日って……」
 「初診だと明日の午前中しか予約空いてないんだって」と、家人。
 「本当に明日なのか。明日?明日行かなきゃならないの……」
 ふと、わたしは、昨日の会話を思い出していました。それは、退院してやっと家に戻った直後、入院していたZ病院から紹介されていた都内某所の不妊治療を専門とするh病院へ予約の電話を入れたときの会話でした。精巣腫瘍の治療においては、化学療法の副作用で不妊になるおそれがある為、化学療法を開始するまえに、健康な精子を凍結保存する必要があるらしいのです。
 わたしは、ホームのベンチに座ったまま、ぼーっと目の前の線路を見ていました。すーっと、また電車が入ってきて、とまり、人々をおろしていきました。人々はまた階段のほうに消えていきました。
 『なんで自分だけがこんなにつらい目にあわなきゃならないんだ。』
 わたしは、とうとうそう思いました。体は痛いままでした。