これから書くことは少し衝撃的な部分もあることと、今は全て解決し、母も夫も子供もみんな仲良しであることを先に伝えておきます。
子供が産まれた後、幸せなはずの子育てに悩み、強く感じたこと。
なぜ私は生きなければいけないのだろう。
こんな世界にいたくない。
さっさと殺○て。(死ぬ勇気がない)
何度となく夫に叫んでいたほど、私は生きづらかった。(良く夫は壊れなかったと思うし、今思えば精神疾患、、、)
子供が産まれ、ハッピーな子育てをするはずだったのに、、社会と閉ざされ、何もできない、家事すら碌にできない、、、
何一つ無い喪失感と絶望感を感じていた。
その生きづらさは、子供を産んだ頃と、
小学生高学年から、中学生の頃に大きくあった。
私は母親が大嫌いで許せなかった。
それが理由で、中学生で、いわゆるヤンキーになった。
ヤンキーと言うのは、バカでもなんでも、なんか存在感が守られるというか、「あいつはヤンキーだから仕方ない」と言うカテゴリーで、ある意味許されることが多い。
母は、いわゆる教育ママで、私を自分の思う通りに育てたかった。完璧であることを求められ、常に頑張らないと母が望む娘にはなれないと小さな頃から思ってきた。だけど、その完璧が辛すぎて苦しすぎて、放棄したかった。
どうやってその感情を、怒りをぶつけたらいいかわからない。。。
そんな時にあの頃はヤンキーと言う逃げ道があった。
今はあんな馬鹿げたことをしない子が多いから、不登校を選ぶんだと思う。
登校しなくても、ネットという場所もある。
あの頃は外に出なければ誰かとつながらなかったからね。(だから悩んでるお母さん、不登校でも、どっかでなんかのきっかけで人は変わるよ大丈夫!)
一通りの悪さをした。
仲間は、札付きの悪と呼ばれる連中で、
だけど、教授の息子だったり、地元で力のある家柄だったり、なんとなく境遇は似ていた。
犯罪の領域もあるので(笑)
詳しく書くことはやめておくけど、
まあ一般的なヤンキーのやることは全てやった。
神社でタイマンはらされたり、トイレに呼ばれてボコられたり(笑)
他校の生徒に喧嘩売りに行ったら
先生に、おまえが○中の〇〇か!?と名前が通っていたり(笑)しょっちゅう喧嘩してた。
学校に、さらし巻いて胸にドスを刺した、リーゼントのお姉さんが、仲間たくさん引き連れて、私目指してやってきたこともあった・・・
先生総出だったな。
そんな中でやっとこさっとこ、自分を支えていたのだけど、はて、、、このまま自分はどこにいく?とも思っていて、馬鹿なままで人生終えるのもな、、、と、中2のア・テストの頃、とりあえず今後のために点数を取っておくと決める。
友達に、ア・テストっていつ?と聞いたら一週間後だと言われて、驚く、、、
一週間だけ、勉強した。
何をしたか覚えていないけど、うおーーーーーっっつと、声が出そうなほどやった。
点数は、
その地域のトップから2番目の学校に行けるくらいの成績を取った。
そこからまたしばらく悪さして、中3の頃少し落ち着いた気がする。
もう、あの頃のことはほとんど覚えていないし、写真も何も全部捨てた。
子供を産んで、不機嫌な自分を機嫌良くするために、とにかく汚かった家を片付けると決めた時
人が来た時用の食器
幸せの証のような写真立て
鎧のような洋服
外で子供を黙らせるためのおもちゃ
本当の自分を隠すためのものがたくさんあって、
それはなぜだろうと思った。完璧でない自分を、
私は常に本当の自分を隠して生きていたんだなー
親の理想の子供でいるために。
親の理想の子供でいられなかったから、
だけどそれでできない自分だと思われたくなかったから、あの時ヤンキーの道を選んだんだ、、、
そっか、そうだったのか、、、
でも今、あの頃の母と同じように
私は我が子に
こうあるべき、べきべきべきべき!!!!!
って、ちゃんとしなさいって
なぜ同じことを繰り返しているんだろう。
毎日、毎日
家中のものと向き合って、
気づいたら6年も片付けていた。
自分の心と向き合いながら
必死で片付けていた。
私の使命への道は
怒りに満ちた思いの中にあった・・・
許せない世界を変えたいと思った。
これが起業へのスタートでした。
使命やミッションなんて特別な人にあるものって思ってない?
誰にでもあるし、
そこに向かって生きていくと、
みんなハッピーになっていく!
あなたのミッションを一緒にさがそ!
ってか、このシリーズ明日までに終わらないじゃん(笑)
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