解脱について
岡本 このカイヴァリヤ(独存)は『ヨーガスートラ』で説かれているラージャ・ヨガの目的でもありますよね。
リタ カイヴァリヤっていうのはどういう状態なんですか?
岡本 カイヴァリヤはプラクリティから切り離されてプルシャだけが残ることで、いわば人間の死です。ここで「プラクリティは活動を終え」と書いてあるように、生命活動は終わります。そして、「この25の原理に習熟することによって、誤りから完全に離れることのできる清浄な知識を得る」と言っているように、それらの原理に対する知識を得れば人は解脱できるということですね。
まあ簡単に言えば、映画も同じものを見続けると飽きるでしょう。その内容に習熟してしまって、もう見る必要はないと思うわけですね。そのように、サーンキヤの知識によって世界に対する興味関心や執着がなくなれば、解脱できるということです。
一方で、まだ色んなものに興味関心がある人は解脱には至らないわけです。映画でも次から次に新しい作品が見たいと思っている人は何度も映画館に通うことになるでしょう。そういう欲求を持っているなら、まだまだ世界に執着があって、輪廻を繰り返したいと思うわけですね。
ですから、ここで言っているのは、そういうプルシャは「もう見終えた」、プラクリティも「もう見てもらった」というような、飽きるというか、冷めた感覚を持つことが解脱の動機になるというわけです。
リタ なるほど。でも、死んでしまうっていうのはどうなんでしょう。ヨガやサーンキヤの実践によって死ぬことが最終的な目標になるんですか?
岡本 ヨガや仏教は基本的に輪廻が前提となっている思想ですよね。そして、仏教でも「一切皆苦」と言いますが、生まれ変わりを繰り返すこと、生きることが苦しいのでそこから解放されたいと考えるわけです。つまりそれが解脱で、輪廻から解放されるという意味での死は最終目的です。これを入滅とも呼びます。
そもそも、「生きることは素晴らしい」とか、「仲間や友人がいて楽しい」という人は悟りや解脱みたいなものは必要ないわけですよね。そのまま楽しく輪廻すればそれで何も問題はないわけです。一方で、それを深刻なものだと洞察する人は、悟りや解脱を求めることになるでしょう。
リタ うーん。でも、死ねば良いとなると、自殺とかは肯定されませんか?
岡本 いえ、自殺については肯定的ではありません。なぜなら、輪廻の観点から言えば、自殺するだけでは人は死ねないからです。つまり、自殺してもまた生まれ変わってしまうので、単に命を経つだけではその人が入滅することはないわけです。死んで目の前の問題から離れたとしても、来世またその問題を抱えることになります。ですから、死んで問題を先送りにするなら、今向き合った方が良いわけです。
このように、ヨガや仏教の観点から言えば、本当の意味で自殺したい、この世界から離れたいと思うなら、自殺するより出家しろということになるわけです。そして、そのための方法論としてサーンキヤでは25の原理の知識に習熟すること、ヨガでは瞑想が説かれているわけですね。そして、それは単に今世だけで実現されるとは限らず、何度も生まれ変わりながら次第に解脱に向かっていく、そういう見方をしているわけですね。
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