私たちは、みんな自分なりのフィルターを通して世の中を見ている。


生育の過程で経験してきたこと、学んできたことでそのフィルターはできている。


人それぞれのものの見方・考え方のクセでもある。



最近の話題では、オリンピックについての見方考え方。



このご時世での開催には賛否両論入り交じり、国民の気持ちは1つにまとまってとはいかなかった。



賛否についてはここでは置いておいて


オリンピック開催という事実は同じでも、見方考え方は、それぞれ違っていたということに注目したい。



知識も立場も経験もバラバラなのだから、それぞれ違っていて当たり前。



ある見方をすれば開催が正解だし、別の見方をすれば開催しないことが正解にもなる。



これはオリンピックに限らない。

1つの出来事、物事を見てもその見方・考え方はそれぞれ違っていて当たり前なんです。


これを私たちはつい忘れてしまう。

そして自分で自分を苦しめることになってしまう。


「それが普通でしょ?信じられない。」

「そんなの当たり前だよ。受ける( =^ω^)」


自分の見方・考え方が唯一の正解だと思っていると対話でなく対立になって、話は先に進まない。


今回のオリンピックに関して大勢が納得できぬままだったのは対話が不足していた、できぬままだったからとも言えないだろうか。



自分の見方・考え方が正しいとは限らない、違っているという前提に立つことから、協同しあう関係での創造が始まるんだと思う。



ものの見方・考え方は人それぞれ。

違っているのが当たり前。 

たまたま一緒だったら、喜びと共に相違点を探ってみたい。



違ってて当たり前。

それぞれのフィルターの存在に自覚的になりたい。あの人もこの人もみんな自分に馴染みのフィルターごしに世の中を見ている。

それをみんなでもう一度共通理解したい。

合わせよう合わせようとしなくて大丈夫。

肩の力を抜いていけると、生きるのがちょっと楽になる照れ