「Possibly(ひょっとしたら)」
そう濁して逃げ道を作っていた彼が、
ついに私の牙の射程圏内に入った。
地球をチェス盤のように飛び回り、
時差の嵐の中にいたはずの彼が、
ようやくニューヨークの地に足をつけたという。
「Ready to be married to you(結婚する準備はできている)」
彼が放ったその一撃は、
6年という月日を飛び越え、
私の人生を根底から揺さぶるはずの重い一手……のはずだった。
けれど、
次に彼が動かした駒は、
あまりにも矮小で、滑稽なものだった。
「アパートの掃除ができていないから、
君を泊められない。フライトをずらそう」
目眩がした。
数千マイルの移動距離を誇る男が、
自分の部屋の数メートルの汚れに足を取られている。
世界を股にかけるエグゼクティブを自称しながら、
プロの清掃業者一人、
電話一本で呼べないというのか。
「ニューヨークのことを知らない」のは、あなたの方よ。
「It’s very adult(ずいぶん大人だね)」
皮肉な笑みを浮かべて
マウントを取るかのような彼に、
私は最後の一手を指した。
「掃除を待つ女より、マクシムを追う女でいたい。
さようなら」
既読は一瞬だった。
かつて既読をつけずに
私を焦らせることで主導権を握っていた男が、
今は絶望のあまりスマホに張り付いている。
その「即既読」こそが、
彼が完全に詰んだ(チェックメイト)証拠だ。
6年前に止まったままの時計を、自分の手で叩き壊す。
夫は毎日聞いてくる。「もう彼をブロックした?」と。
「今、断捨離終わったわ。ミラノ、楽しみね」
隣で静かに待っていた夫に告げる。
夫は、私の牙が収められたことを知っているかのように、穏やかに微笑んだ。
「掃除、業者に頼んでおいたよ。
帰ってきた時、気持ちいいように」
……勝負あり。
私は、本物の「Adult(大人)」の隣で、
新しい空へと飛び立つ。
(完)
