2011年3月11日

 
私はその時、古い雑居ビルの中にいて
なんの罰ゲームなのか
人様の自慢話を延々と聞かされていました。
 
(早く終われ~早く終われ~)
 
と心の中で強く念じていて、
 
すると微かな揺れを感じ
やっと
自慢話から解放されたのです。
 
 
その後の激しい揺れ
 
このビルは崩れてしまうのでは、と身の危険を感じました。
 
 
急ぎ、大混乱の中を帰宅し
家族の無事を確認しました。
 
TVから繰り返し放映される、東北の惨状。
何度も旅した三陸海岸の町
思い出の場所、亘理の浜
そして福島
 
東北がこのまま壊れていく…
 
為す術もなく一晩中泣きながら
ただ映像を観ているだけでした。
 
 
 
その後、
福島県双葉町が集団移転して来る情報を得て、物資を手に駆けつけましたが
 
まだボランティアの受け入れ体制が出来ていないからと物資ごと戻され
 
 
 
当時、通行止めになっていた東北自動車道が緊急車両のみ通行可能になり、
私はそのバスに乗り込みました。
 
ゲートの閉ざされた東北道
車道の標識もライトも消え
バスのライトのみが道を照らすだけ
反対車線側も真っ暗、深い闇
 
この異様な事態
 
唯一解放されていたSAでは
自衛隊員が黙々と食事をしているのみ
いつもはお土産物を求める観光客で賑わう場所で、今は誰一人言葉を発する人もいない
 
那須高原を越す辺りから
道路の損壊が激しく
バスが揺れ、大きくバウンドするたび
その深刻な状況が伝わり
車内の人の声が少なくなって行きました
 
目的地に到着し
 
ボランティアセンターに登録に行くと
人数過多で断られ充分な活動も出来ずに
ただ帰って来たことが悔やまれました。
 
その後、官庁勤務を辞め
支援活動や炊き出しなど、色々なボランティアに参加しましたが
 
何をやっても無力感
活動の限界を感じた時期でも有りました。
 
 
その一年後、
母の末期癌が見つかりました。
母を支えていた父までも、病に倒れました。
そして私の孤独な遠距離介護が始まりました。
 
父と母、交互に手術と入退院を繰り返し
 
娘の受験時期とも重なり
 
いつどこから呼び出しがあるやもしれず
常に携帯電話を手に緊張し、心も身体も疲弊している日々でした。
今、思えば壮絶な体験でした。
 
母が亡くなり、
様々な問題が身に降りかかり
理不尽な思いと
喪失感に包まれていました。
 
 
震災の被害に遭わなかった私でさえ
この5年は長く暗闇の中にいる思いでしたから、被災した方はどれ程の思いでしょう。
 
どうして私ばかりが…
 
という思いに支配されそうになった時に、
震災で被災された方たちを思い出し
何とか自分を奮い立たせて来ました。
 
被害に遭われた方たちに
やっと形をなしたお返しが出来るようになって来ました。
 
長い5年でした。
失ったものを探すのは止めて
有るもの、見つかるものを探す5年にして行きたいと思います。
 
 
 
長く自分の震災からの体験を綴りました。
お読み頂きまして、有難うございました。