2004年02月25日
私は2002年1月から2003年1月までの一年間、フランスの田舎に留学していた。
日本の大学では読み書きしか勉強せずに、海外旅行の経験もなしに、パッと飛び立った。
自分を鍛えるためだった。苦労をさせたかった。荒波に揉まれたかった。それから、迫り来る「就職」という現実からすり抜けるために。
話すことも聞くことも満足に出来ない私は、学校のほかにテレビや雑誌で勉強していた。
渡仏して約半年後、夏のヴァカンスを利用して6月いっぱいパリの語学学校に通う事にした。
フランスに来てパリに滞在するチャンスを逃してどうする!
何度かの短い観光しかしたことがなかったので、このチャンスを利用してパリでの擬似生活を試みたのだ。
友人も何のツテもない街だったけれど、なんの不安もなかった。
ただ緊張してドキドキしながら、辞書や服がギッシリ詰まったバックパックを背負って田舎から出てきた。
自分の胴体よりも大きなバックパックは、肩に食い込んで骨ごと持っていかれそうなほど重かった。
6月とはいえ暑かった。汗が滲んだ。Gare de Lyonに降り立ち、メトロに乗り、パリの南のはずれまで来た。
Porte d'Orleansで地上に出て、 Cite Universitaireを目指した。
希望していた学校直営の下宿は満室のため、ここを紹介された。
どんなところか知らなかった。けれど1ヶ月も居れば絶対に1人くらいは友人が出来ると思っていた。
着いたら、あっけにとられた。大きな大きな敷地の、学生会館の集積場のようなところ。
普通のアパルトマンのような小さなところを想像していたから、門から見える果てしない敷地と出入りする外国人の多さに圧倒され、急に泣きたいような気持ちになった。
まさか、聞いてないよ。
敷地内には幾つもの館があって国ごとに分かれているようだ。
Maison de l'Italie 、Maison du Japon・・・ああ、日本のお城のような建物がある。
Eメールの内容を頼りに滞在先となる館を探す。
敷地の隅の、ツタの絡まる洋館だった。ペパーミントグリーンのうろこ壁に白のよろい戸。
玄関前は丸いポーチになっていて手入れのされていない杯の形の大きな花壇があった。
フランス風というよりはむしろ、イギリスの庭園様式のような洋館だった。
入って、入館手続きをする。到着予定日は明日のはずよ、と管理人に言われたが、
いやメールで問い合わせたら今日でも可能だと言われた、と反論。
フランスに来て初めてフランス人に反論した瞬間だった。
やっと部屋をあてがわれ、2階へ上がる。通りすがりの欧米人の男の子が英語で話し掛けてきた。
部屋を探しているのか?と。
私はフランス語で答えた。彼は面食らったような顔をしたがすぐ表情を消し、去っていった。
部屋に入って、また呆然とした。
ただの箱だった。
6畳もない長方形の部屋の、下辺となるドアの向かいに窓。その右に小さな洗面台、左に小さな作り付けの棚と、小さなテーブルとイス。
右辺に当たる壁には子供用のような小さなベッドと小さな棚。その足のほうにはクローゼット。ただ、それだけ。
バス・トイレ・キッチンが共同なのは承知の上だったけど、あまりの部屋の狭さと殺風景さに絶望感すら覚えた。泣きそうになった。
汗だくのまま、重いバックパックで壊れそうな肩と歩きすぎて震えがきている足を感じながら、何も出来なかった
立ち尽くすしかなかった。
嫌な予感がした。
部屋の窓下には小さな小道があり、それを挟んで日本人学生の滞在する日本館が見えた。
滞在中、ずっと、窓下の道を通る人に声でも掛けてしまおうかと思いながら日本館を眺めていた。
あっちに、故郷がある。
誰か。
この部屋に来た次の日に学校に初登校し、また愕然とした。想像した「学校」ではなかった。
教室はビルの薄暗い一室で、神経質で一人で笑ったりしゃべったりする、コミュニケーションが下手で生徒の反応が悪いと胃のあたりを押さえ始める早口の先生が、どんどんテキストを進めていった。ブロンドの重い前髪でまゆ毛が隠れていたから目の印象が強かった。肩までの髪に黒いスーツを着ていた。
生徒は欧米人ばかり、読み書きは下手だが会話が出来る。
典型的なアジア人型能力の私は、その逆。
授業中の会話と先生のイライラした感じについていけないと、すぐにクラス変更を決めた。
その帰り道、パリ滞在中のたった一人の友達となった韓国人のHYE YONGとお茶をした。
声をかけたのは私。私の行動勝ちだった。これを逃したら、きっと一人も友達は出来なかった。
クラスを変えるのもひと苦労だった。会話力のなさにまた泣いた。
クラス分けテストの後の相談にはあまりのってもらえず、何度目かに対応してくれた親切なおばあちゃんが根気よく付き合ってくれたものの、会話力のなさから希望通りのクラスにはならなかった。
私がもういいやと投げ出した。
けれどクラスを変えても状況は変わらなかった。
パリという都会に暮らすクラスメート達は、すでに自分の生活基盤を持っていた。
フランス人の男性と結婚した人、フィアンセがいる人、仕事を持っている人、親の仕事できた人、すでに長く滞在し友人がいる人。全員がこのどれかに当てはまった。
何の基盤もなくポンと来たのは私だけだった。
私は、本来滞在していた街の学校のように、学生達は学校にウェイトを置き、他国籍の友人と触れ合うことを求めるような場所を勝手に想像していた。
授業中も放課後も、お茶したり自分の国や家族のことを語り合うことが出来ると勝手に胸を膨らませていた。
現実は違った。皆、さっさと帰っていく。先生としか会話はしない。
登校もまちまち。
2度目の絶望感を味わった。
それから、学校には何の期待もせず、会話をする人も食事をする人もいないままパリで過ごしていった。
部屋にはテレビもない、まともな食器もない。せめて朝は暖かい飲み物が飲みたい、と大きなスープカップを買った。
これで、小さな共同キッチンについている電子レンジで温かいスープやコーヒーを作れる。
私は1ヶ月という短期滞在のため、調理器具も食器も持ってきていなかった。
包丁だけだった。
近所のスーパーでプラスチックの皿、コーヒーカップ、スプーンを買った。使い捨てのようなやつ。
小さな冷蔵庫に常備したレタスとチーズと牛乳とシリアルが毎日の食事だった。
隣りの部屋に住む背の高いフランス人の男の子から、ドアの開け閉めがうるさいと苦情を言われた事もあった。
私に非があった。イライラしていたからドアを蹴って開け閉めをしていたのだ。
けれどdesoleeがとっさに口から出てこなかった。言ったのはexcuse-moiだった。
シャワーはトイレと同じ部屋にあり、板一枚で隔たれていた。シャワーはみんなが土足で
あがるのでいつも泥で汚れていた。
幸い私は夜に入る習慣があったので、夕方の清掃後のまだ誰も使っていないシャワーを使えた。
小さな共同キッチンはいつも中国人の3人組が使っていた。
中国人はどこででも自炊する。
キッチンやシャワーのために部屋から出るとき、私はいつも人目を避け、ドアに耳を当てそばだて、食器の音や足音が聞こえなくなるのを待った。
地下にあるコインランドリーを使うのも緊張した。
すぐそばにテレビやビリヤード台のあるサロンがあり、笑い声が聞こえることもあった。
誰にも見られないように、会わないように、声をかけられないように・・・。
そんな消極的な緊張でいつも張り詰めていた。
乾燥機やランドリー用の小銭を用意しておくのも面倒だった。
ストレスからチョコレートを異常に食べる日々が続いた。
ファミリーパックのチョコレートを一日で平らげる。
大嫌いだったコカコーラを、この1ヶ月だけは、毎日欠かさず飲んだ。
あまりの淋しさに、ラジオを買うことを思いついたのはパリに来て1週間ほどしてからだろうか。
耳の練習のためでもあったが、誰とも会話しない上にテレビもなく何の音楽も聞けない。
それは無音の拷問のようで、狭い小さな箱のような部屋で気が狂いそうだった。
ラジオは私の孤独で辛いパリでの生活を少しだけ彩ってくれた。
朝はニュースを、昼はとりとめのない番組を、夜は歌番組を。
ほんの少しだけ救われた。
パリの生活も3週間が過ぎたころ、私は学校を休みがちになり、映画や買い物や散歩に明け暮れるようになった。他にすることがなかった。
週に1度、Hye-Yongが部屋に招いてくれた。いつも何かしらご飯を一緒につくり、お酒を飲んだ。
2歳ほど年上だったけれど天然ボケの人のよい女の子だった。
パリは嫌いだと言っていた。料理人になりたいと言っていた。
けれどまだフランス語を習っている段階。何年かかるか分からない。
彼女の生活は豊かだった。1LDKの素敵なアパルトマンを16区に持ち、大画面のテレビで衛星放送を。インターネットも楽しみ、ワインや高級な紅茶や食材を惜し気もなく買い、ご馳走してくれた。
こんな時期、ラジオは私に少しの安らぎをくれるようになった。
午前中、学校をサボった日や休日に、ラジオを聞きながら窓を開け、6月の暑くて爽やかな日差しを浴びながら目の前の日本館を眺める。
少しの安らぎ。
もとの滞在先の街に帰ってきてからもラジオは大活躍だった。
朝、目覚まし代わりにニュース番組を流す。
昼過ぎ、学校から帰ってくるとテレビの代わりにこれをつけてお昼を作る。
夜、勉強をしながらBGM代わりに流す。
深夜、ワインを飲みながらネットーサーフィンをし、ラジオで耳の訓練もする。
真っ黒の大きな机の目の前には、もっと大きな窓。
そこから田舎街の郊外型団地の夜景が見えた。
自分の顔も映り込む。
オレンジ色の街灯や白い窓の明りと重なった自分の顔を、よく眺めた。
濃密で閉塞された、豊かで重厚な時間だった。
私しか知らない、私が作り出した濃縮された時間だった。
ラジオはいつもそのBGMを流していた。
日本に帰ってきて半年ほどしてから、友人がインターネットでフランスのラジオを聞けることを教えてくれた。
オレンジ色の白熱灯のデスクライトに、ちょっとこもった音質。フランス語のラジオにワイン。
この瞬間はいつも、あのパリの昼の柔らかな日差しと、ブザンソンの濃厚な夜の空間を
思い出させてくれる。
胸の奥の奥のそこからじわりと滲んでくる、何とも言えない感覚。