GW前半に2泊3日で行った福島旅行。
 
白虎隊の悲劇の舞台として知られる飯盛山
白虎隊とは?
戊辰戦争時、会津藩が軍政の改革で組織した、年齢別の4部隊
玄武隊 50歳 以 上  予備隊
青龍隊 36~49歳 国境警備隊
朱雀隊 18~35歳 主力実戦部隊
白虎隊 16~17歳 予備隊(警護)
16~17歳武家男子で編成された部隊が白虎隊

 

新政府軍が会津城下に迫った1868年

(慶応4年)8月22日。

敗戦の色濃くなった会津藩の藩主・松平容保は本来警護が任務の白虎隊士中二番隊を

戸ノ口原の前線へ送った。

奮戦空しく数名の戦死者も出した白虎隊士は撤退を余儀なくされ、洞穴を抜け

飯盛山へ落ち延びた。

 

鶴ヶ城に燃え広がる砲煙メラメラを見て話し合った結果、

会津武士らしくと彼らは自刃した。

8月23日の事だった。

 
白虎隊十九士の墓
自刃し亡くなった19名の隊士が眠っています。

 

自刃の地はお墓の右手奥になります。

シャガの花がたくさん咲いていました。

(東京ではもう時期は過ぎてます)

 

上矢印こちらはこの山の麓にある白虎隊記念館の前にあった看板。

飯盛山に落ち延び自刃した白虎隊士は20人でしたが、

急所が外れた飯沼 貞吉は生き残りました。

白虎隊悲劇の経緯もこの看板に詳しく書かれてますので、

ご興味のある方は写真を拡大してご覧ください。(多分ちゃんと読めるかと)

 

飯沼貞吉のお墓は自刃の地のそばにあります下矢印

自刃の地には鶴ヶ城を臨む白虎隊士が。

しかし16,17歳の男子と言うには幼い像だと思うけどあせる

いくら当時の日本人が今より体格が小さかったとはいえ。

この位置から見た鶴ヶ城
高く伸びてる棒は何でしょう?
それが邪魔(目印!?)なんだけど。

 

で、今度は白虎隊十九士の墓の左下側、さざえ堂を更に下ると・・・

戸ノ口堰洞穴

もとは猪苗代湖から水を引くために採掘されたもの。

白虎隊士はここを通り抜け飯盛山にたどり着いた。

 

ここから山を下ると白虎隊記念館が。

4月30日(火)のこの日は休館日でした泣き笑い

大抵の美術館・博物館・庭園と同じように、月曜休館日なのが、

前日29日月曜が祝日だったので、翌日休館日になったんだな

と思いましたが、関係なく毎週火曜が休館日でした滝汗

こちらの像は年齢相応の気がします。

 
飯盛山を後にし、次は白虎隊の学び舎
會津藩校日新館

飯盛山から離れた北の方角にあります。

最初の階段を上ってまた階段
両側にすっごく大きな狛犬??
 
永楽大康獅子
清白石(上質の大理石)でできており、中国・明時代の様式。
日新館の守護にあたり、世の中の安泰を願う獅子とのこと。

 

会津藩士の子供たちが入学前に学ぶ什の掟
記された巨大看板が。
大きさがわかるよう夫を配置。
日新館に着いた頃、小雨雨が降ってきました。
 

南門から入ります。

會津藩士の子弟が10歳になると入学し、学問・武道を学んだ学校。

白虎隊の少年達もこちらで学びました。

先の飯沼 貞吉の看板にも貞吉日新館秀才だったと書かれていました。

戊辰戦争焼失メラメラしてしまった日新館ですが、昭和62年に完全復元されました。

上矢印こちらは帰る時に撮影。
もう門が閉められていて、通用口だけ開いてました。
(上の写真では開いています)
この門は藩主をはじめとする上級武士だけが出入りを許され
普段は閉じられていたそうです。
生徒の登下校は敷地の両側にある東門西門を利用したそうです。
 
こちらは(げき)
左室に太鼓を置き、これを打ち鳴らして時を知らせていたそう。
門の両側は仁王様のようなこれまた獅子がおり、太鼓には気付きませんでした。

 

屋根の上には・・・白虎!?

違うかあせる

 

下差しこちらは素読所
10歳になった武士の子は素読所へ入学。
漢文の読みからスタート。

こちらのお人形さん達は亡くなった十九士がモデルになってます。

一人ずつ説明がついてるのだけど、奥の方は読めんて!

カメラズームして撮って、それを拡大すれば読めそうですが。

そこまでしませんでした。

因みに一番手前の右手を挙げてるこの坊ちゃんは

井深茂太郎16歳

13歳で大学に学び度胸もあった。

一族にソニーの井深大氏、明治学院の井深梶之助先生がいる

と説明が読めます。

おおっ!という人を手前にしてるのかと。

井深梶之助氏の像は天文台(後に写真あり)の下にありました。

彼も15歳の時に白虎隊士として戦ったようです。

 

 

下差しこちらは天球儀で天文学流れ星を学んでいる部屋

この子は伊東悌次郎16歳。

勤勉で藩公から何度か褒賞を賜ったと。

食事の様子

日本で初めての給食はこちら日新館なのだとか。

こちらのモデルさんは篠田儀三郎17歳、二番隊のリーダーだそうです。

と、私も今写真をUPして初めて説明書きを読んでます滝汗

 

こちらは木馬場下差し

乗馬の練習するところかな?

上差し水練水馬池

鎧兜を身につけたまま、泳ぐ練習をしていたと。

このお人形の子はふんどし姿だけど!?

 
こちらも日本初のスイミングプールだそうで。

 

天文台流れ星がこちら下矢印

天文台上から見た日新館

めっちゃ広いです。

 

下矢印砲術場

手前と奥の芝生のところが弓道場

 

まだまだありましたが、多過ぎるので写真はこの辺で。

このように何から何まで備わった学校で、学力水準は

相当なものだったろうと思われます。

11歳で礼法、12歳で書学、15歳から馬、弓、槍、刀などの

武術の修行が始まったようです。

天文学、数学、医学、蘭学など専門的な事も学んだとか。

千人以上が在籍し、能力が高いと飛び級も可能だったそうです。

 

そんな若く可能性のある若者達が戊辰戦争で命を落とした。

白虎隊の悲劇は哀愁を感じさせ、いつまでも歴史に残るのでしょうね。

 

長くなりましたが、白虎隊にゆかりのある場所2ヶ所について記しました。