こちらから続きます。
新政府軍が会津城下に迫った1868年
(慶応4年)8月22日。
敗戦の色濃くなった会津藩の藩主・松平容保は本来警護が任務の白虎隊士中二番隊を
戸ノ口原の前線へ送った。
奮戦空しく数名の戦死者も出した白虎隊士は撤退を余儀なくされ、洞穴を抜け
飯盛山へ落ち延びた。
鶴ヶ城に燃え広がる砲煙を見て話し合った結果、
会津武士らしくと彼らは自刃した。
8月23日の事だった。
自刃の地はお墓の右手奥になります。
シャガの花がたくさん咲いていました。
(東京ではもう時期は過ぎてます)
こちらはこの山の麓にある白虎隊記念館の前にあった看板。
飯盛山に落ち延び自刃した白虎隊士は20人でしたが、
急所が外れた飯沼 貞吉は生き残りました。
白虎隊悲劇の経緯もこの看板に詳しく書かれてますので、
ご興味のある方は写真を拡大してご覧ください。(多分ちゃんと読めるかと)
飯沼貞吉のお墓は自刃の地のそばにあります
自刃の地には鶴ヶ城を臨む白虎隊士が。
しかし16,17歳の男子と言うには幼い像だと思うけど
いくら当時の日本人が今より体格が小さかったとはいえ。
で、今度は白虎隊十九士の墓の左下側、さざえ堂を更に下ると・・・
戸ノ口堰洞穴
もとは猪苗代湖から水を引くために採掘されたもの。
白虎隊士はここを通り抜け飯盛山にたどり着いた。
ここから山を下ると白虎隊記念館が。
4月30日(火)のこの日は休館日でした
大抵の美術館・博物館・庭園と同じように、月曜休館日なのが、
前日29日月曜が祝日だったので、翌日休館日になったんだな
と思いましたが、関係なく毎週火曜が休館日でした
こちらの像は年齢相応の気がします。
飯盛山から離れた北の方角にあります。
南門から入ります。
會津藩士の子弟が10歳になると入学し、学問・武道を学んだ学校。
白虎隊の少年達もこちらで学びました。
先の飯沼 貞吉の看板にも貞吉は日新館の秀才だったと書かれていました。
戊辰戦争で焼失してしまった日新館ですが、昭和62年に完全復元されました。
屋根の上には・・・白虎
違うか
こちらは素読所
こちらのお人形さん達は亡くなった十九士がモデルになってます。
一人ずつ説明がついてるのだけど、奥の方は読めんて
カメラズームして撮って、それを拡大すれば読めそうですが。
そこまでしませんでした。
因みに一番手前の右手を挙げてるこの坊ちゃんは
井深茂太郎16歳
13歳で大学に学び度胸もあった。
一族にソニーの井深大氏、明治学院の井深梶之助先生がいる
と説明が読めます。
おおっという人を手前にしてるのかと。
井深梶之助氏の像は天文台(後に写真あり)の下にありました。
彼も15歳の時に白虎隊士として戦ったようです。
こちらは天球儀で天文学を学んでいる部屋
この子は伊東悌次郎16歳。
勤勉で藩公から何度か褒賞を賜ったと。
食事の様子
日本で初めての給食はこちら日新館なのだとか。
こちらのモデルさんは篠田儀三郎17歳、二番隊のリーダーだそうです。
と、私も今写真をUPして初めて説明書きを読んでます
こちらは木馬場
乗馬の練習するところかな?
水練水馬池
鎧兜を身につけたまま、泳ぐ練習をしていたと。
このお人形の子はふんどし姿だけど
天文台がこちら
手前と奥の芝生のところが弓道場
まだまだありましたが、多過ぎるので写真はこの辺で。
このように何から何まで備わった学校で、学力水準は
相当なものだったろうと思われます。
11歳で礼法、12歳で書学、15歳から馬、弓、槍、刀などの
武術の修行が始まったようです。
天文学、数学、医学、蘭学など専門的な事も学んだとか。
千人以上が在籍し、能力が高いと飛び級も可能だったそうです。
そんな若く可能性のある若者達が戊辰戦争で命を落とした。
白虎隊の悲劇は哀愁を感じさせ、いつまでも歴史に残るのでしょうね。
長くなりましたが、白虎隊にゆかりのある場所2ヶ所について記しました。