■湯殿での戯れ


夜嵐お絹(よあらしお絹)は、幕末から明治初期に実在した毒殺犯で本名原田絹(はらだきぬ)といいます。出身地については、諸説ありますが1840年、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたそうです。16歳の時に両親と死別し伯父に引き取られますが、すぐに江戸に出て浅草仲見世の半襟店で働きました。お絹は大変な美人であったことから連日のように、大勢の客が押し寄せ店は大繁盛だったそうです。たまたま、浅草参りに行っていた烏山藩(栃木県)藩主・大久保忠美が、この美人のお絹を見初めて、お供に命じて伯父を連れ立って下屋敷に来るように命じました。(出会は芸妓のお絹を見染めて、芝居小屋に出ていたお絹を見染めてなど諸説あります)

お殿様自ら伯父に、お絹を御部屋様(側室)として迎えたいと頼んだそうです。当時、側室になることは、名誉であるばかりか莫大な支度金がもらえるため、願ってもないお話だったのです。もちろん漁師の娘からすぐには武家には入れませんから、一度しかるべき家の養女となり、そこからあらためて側室として迎えることになるのです。

話がまとまり名も「花代」と改め、半月ほどで側室としてお城に上がりました。

安政末に編纂された「烏山家家譜」によれば、忠美は24歳年下のお絹を溺愛して、毎晩のようにご寵愛したそうです。1857年、花代はお世継ぎの「春若」を出産します。しかしその3年後に、忠美は病で逝去してしまいます。

わずか45歳の若さでした。

[公式]新説あぶな絵伝

お絹は当時の慣例に従って名を「真月院」と改め、仏門に入ります。しかし、普通の武家の娘ならこの後、生涯亡き夫の冥福を祈る生活を送るのですが、もともと信仰心の薄い漁師の子ですから17歳の子供にはそのような生活は馴染めなかったたのです。やがて欝状態になります。医師の勧めで箱根に転地療法することになり、お供をつれて箱根に行きました。箱根は奈良時代から続く名湯で江戸の絵師・鳥居清長の「箱根七湯名所」の絵で一躍有名になり人気が出て、沢山の人が湯治として利用していたそうです。


箱根逗留が10日ほどしたある夜、湯船につかりながら、満天の空を見上げていました。その夜はこうこうと月が輝いて静寂とした露天湯殿を照らしてました。お絹は、湯船のそばで火照った身体を夜風で涼ませながら江戸のことや亡き夫のことを考えてました。そして、思いおこせば主人を亡くしてからこのかた、男との交じあいもなく17歳の若さで寂しく仏門に入ってこうして男を近づけない生活を1年近くになろうとしている。

「浅草お絹」「江戸一の器量よし」と騒がれた日々を思うと、なんと侘しいことかとわが身の不憫を嘆くのでした。

愛おしさが増してそっと胸に手をやりました。未亡人とは言え、まだ17歳の若さです。持て余すような劣情に襲われ、人がいないのを幸いに淫らな気持ちをそっと慰めました。目が潤み顔を赤く上気させ息を弾ませてたその時、突然男が入ってきました。急なことで驚いたのですが、とっさに足を拭う仕草をして誤魔化しました。(次回に続く)


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