■逢いたい一心で
お七が吉三郎と忍び逢うようになって何日すると、娘の様子がおかしいことに気づいた母親が夜にこっそり後をつけると、お七が吉三郎の部屋で全裸で抱き合って、艶かしい吐息を漏らしているのを目撃してしまうのでした。
養女とは言え、好色な娘を持った親の悲しみは深く、とにもかくにも二人を引き離すことを考えます。こうして本郷の店の再建を急がして、一家は早々に吉祥寺を去ることにしました。
その後のお七の胸の内は、いうまでもありません。毎夜のように恋焦がれて吉三郎を偲びます。ついには「もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ける」と考えるようになります。恋は盲目の例え通り、前後の見境もつかなく自分の家に火をつけ吉祥寺へと駆け出したのです。
この放火が江戸の中心部を総なめにする大火となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止めボヤで済んだというのが真実のようです。
しかし、当時は厳しい「失火者斬罪令」(火付けは死罪)があった時代です。ましてや放火犯人は城下引回しの上死罪となります。事件から3ケ月後、天和3年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場で八百屋お七は「火あぶりの刑」に処せられます。
一方、お七の恋の相手の吉三郎は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立。名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。入寂したときは70歳を越えていたと言われています。(完)
■墓マイラーのためのメモ
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八百屋お七は寛文8年(1668年)~天和3年3月29日(1683年4月25日)の江戸時代前期に生きた、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘です。下総国千葉郡萱田(現在の千葉県八千代市)で生まれた農家の子と言われます。
当時、多くの子供は「口減らし」として乳幼児に殺生されるのが普通の時代で、後に幕府がたびたび禁止令を出すほど、農家では子供を「子返し」と言って間引きしていたそうです。
お七もそのような子でしたが、取引で訪れた八百屋・太郎兵衛が不憫に思い養女として引き取ったそうです。
裁判でも、哀れに思ったお奉行が評定で15歳なら死罪は免れると考え「お七、お前の年は15歳だろう」と水をむけても、お七は16歳ですと最後まで正直に答えたたため刑を免れなかったと言われます。
刑が確定すると三日間かけて、江戸城下を引き回したのちに、鈴ヶ森刑場で火刑に処されます。
辞世の句は「世の哀れ春吹く風に名を残し遅れ桜の今日散りし身は」です。遺体はお七の実母が哀れに思い故郷の長妙寺(千葉県八千代市萱田)に埋葬したといわれます。墓は、寛政年間に歌舞伎のお七役を演じた縁で四代目岩井半四郎が八百屋太郎兵衛家の菩提寺「圓乗寺」(東京都文京区白山1-34-9)に建立しました。
毎年3月29日がお七の命日です。
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