「世に悪女尽きることなし。しかし悪女なき世は味気なき世なり」と言われるくらい、いつの世にも悪女は存在していて、それが普通の世の中なのかも知れません。歴史に残る悪女をたくさん書いてきました。もちろん、もっと凄い悪女はたくさんいます。つまり悪女などいくら紹介してもし尽くされないのです。

もしかして、女の子の心の奥には「悪女願望」があるのかも知れません。男の子に征服されたい、みたいな欲望の反面、男の子を征服してみたい、そういう欲望も密かに潜んでいるような気もします。

結局、どんな子にも「邪悪な心」は潜んでいるのだとおもいます。ううん。人間の本質なのかも知れません。

そう考えれば、わたしの心に「邪悪な心」はたしかにあるような気がします。そういう心が、時に男の子を誘惑するみたいな、裏切るみたいな気にさせるのかもしれません。


突然ですが、しばらく「悪女」を休みます。少ししたらテーマを変えて、また書きます。それまでは充電かな。(笑)



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■夫婦になりたい一心で


いつものように、激しい情事の後で布団の中で横になっていると、璃鶴が煙草を吸いながら突然つぶやくようにして「お絹はん、わてのこと忘れたら承知しまへんぇ。うちとお絹はんは旦はんがいなければ夫婦ですよって」と耳元でささやきまました。夢心地の境地に漂っているお絹には、璃鶴の甘い声にうっとりとして、璃鶴の歯の浮くようなおべんちゃらに生娘のように赤くなってうなずいてました。もう一度と腕を絡めると、璃鶴はお絹の胸に顔を埋めてきて、再び歓楽の世界に落ちていくのでした。お絹は「旦那さえいなければ」という言葉が心に残り、頭の中でぐるぐると幾度も繰り返してしまうのです。
やがて二人っきりの生活を夢見ている自分がいました。こうして、しだいしだいに旦那の小林が疎ましくなっていくお絹でした。
ある日、伊之助にこのことを相談すると「旦那にいなくなってもらうのには石見銀山(殺鼠剤)を葛湯の中に混ぜるのが一番ですぜ」と教えられます。そしてお絹はこの恐ろしい計画を実行します。言われたように葛湯の中に殺虫剤を混ぜて小林を殺害したのです。小林は口から泡を吹いて、あっというまに死んでしまいました。

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その後も、そ知らぬ顔で璃鶴との密会を楽しんでいたお絹でしたが、伊之助が口を滑らしたことで噂が立ちついには二人とも逮捕されてしまいます。昔は、不義密通はご法度で妾でも厳しく貞操を要求されていたのです。

1871年(明治4年)5月に小伝馬町に繋がれた時、お絹は璃鶴の子を宿していて子供を生むまでの5ケ月間は刑の執行は延期されました。10月1日璃鶴の子を産んで、1872年(明治5年)2月20日小塚原刑場(南千住)で打首の刑で処刑されます。断頭後三日間は処刑場で「梟首」(きょうしゅ=さらし首)に処せられました。
「夜嵐の覚めて跡なし夢の花」
(美しい花のような生涯でしたが、今は嵐のあとのように消えてしまいました)と辞世の句を残し短い生涯を閉じます。
また浮気相手の嵐璃鶴も不義密通の罪で3年の徒刑を云い渡されました。明治7年9月に釈放され、市川権十郎と改名改して歌舞伎役者を続けたといいます。
処刑後10年も経たぬうちに『其名も高橋毒婦の小伝』を書いた岡本起泉が『夜嵐阿衣花廼仇夢』を発表して毒婦夜嵐お絹の事件が広まり講談、芝居となりました。
(完)


■墓マイラーのためにメモ
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1872年(明治5年)2月20日お絹の首をはねたのは、高橋お伝などを処刑した有名な人切浅右衛門でした。

また遺体の一部は、杉田玄白らにより「解体新書」(1774年刊)を書く上で役立ったそうです。お墓は、刑死された後に「回向院」(荒川区南千住5-33-13)にあります。このお寺は刑死者を供養する為に寛文7年(1667年)に建立されたそうです。境内にはお絹の他にも「吉田松陰」「高橋おでん」「鼠小僧次郎吉」など有名人の墓があります。
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■こんな処で恥ずかしい


「気づかれたかしら?」とドキドキしながら、それとなく男の様子を見ると25、6歳のきれいな顔立ちの男でした。

それが「後家殺しの業平」とあだ名される日本橋の呉服商紀伊国屋の伜「角太郎」でした。
当時の温泉は混浴でしたから男が湯殿に男がは入ってきてもしかたがなかったのですが、慣れているとは言え男の視線は恥ずかしいと感じるものです。でも深夜遅く、人目もない場所、男恋しさに悶々とした女、後家殺の男、薄暗い湯場・・・と条件が重なれば何も起きないはずもなく、すぐにただならぬ関係になってしまいました。お絹はあっという間に洗い場に身を横たえて、激しい角太郎の動きに身を任せていました。こうして箱根逗留の間、何度も愛し合いました。江戸に戻ってからも二人の関係は続き、角太郎が足繁くお絹の元に通う生活がはじまりました。

しかしやがて「真月院」が毎晩乱行していると言う噂が、大久保家の知るところとなり、お絹は追放されてしまいます。もちろん角太郎とは別れ離れになってしまいます。

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それからしばらくは、定かではありませんが、26歳の頃にお絹は浅草で芸者の生活を送っていました。
お座敷に出てまもなく、高利貸しをしている小林金平という老人に目をかけられ、身請けされます。浅草の歌舞伎三座付近の猿若町に妾宅を設け住むことになりました。小林はケチな男でしたが、お絹にだけは求めるものなら何でも与えてました。昔の妾は一軒屋を借りてもらい、通いの女中をつけてもらのが普通で、生活費の他になにがしかの小遣いをもらうなど何一つ不自由のない生活を送れることが出来たのです。そんな折に、旦那の小林に金を借りに来る「伊之助」という遊び人と親しくなります。カレは役者の知り合いが多いことから退屈まぎれに役者を紹介してもらいました。紹介といっても、ただ会うだけでなく、金でHをする「役者買い」のことです。
「可愛い子はH好き」の例えの通り、お絹も多情な女でしたから、金にあかして次から次へと役者を買いあさっていきました。
事件後の新聞報道によれば市川団蔵、尾上菊五郎、市川女寅、助高屋高助、坂東家橘など、当時名優と呼ばれた役者のほとんどと関係をもっていたそうです。お絹の役者狂いが頂点に達したころ、伊之助が連れてきたのが美少年の役者「嵐璃鶴(りかく)」でした。上方歌舞伎出身の役者でした。見たこともないくらいの優しい顔立ち、年下の愛くるしい笑顔にお絹はぞっこん惚れてしまいます。いつしか、璃鶴なしではいられなくなったお絹は、三日にあけず、向島の待合所で逢瀬を楽しんでいました。
(次回に続く)


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■湯殿での戯れ


夜嵐お絹(よあらしお絹)は、幕末から明治初期に実在した毒殺犯で本名原田絹(はらだきぬ)といいます。出身地については、諸説ありますが1840年、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたそうです。16歳の時に両親と死別し伯父に引き取られますが、すぐに江戸に出て浅草仲見世の半襟店で働きました。お絹は大変な美人であったことから連日のように、大勢の客が押し寄せ店は大繁盛だったそうです。たまたま、浅草参りに行っていた烏山藩(栃木県)藩主・大久保忠美が、この美人のお絹を見初めて、お供に命じて伯父を連れ立って下屋敷に来るように命じました。(出会は芸妓のお絹を見染めて、芝居小屋に出ていたお絹を見染めてなど諸説あります)

お殿様自ら伯父に、お絹を御部屋様(側室)として迎えたいと頼んだそうです。当時、側室になることは、名誉であるばかりか莫大な支度金がもらえるため、願ってもないお話だったのです。もちろん漁師の娘からすぐには武家には入れませんから、一度しかるべき家の養女となり、そこからあらためて側室として迎えることになるのです。

話がまとまり名も「花代」と改め、半月ほどで側室としてお城に上がりました。

安政末に編纂された「烏山家家譜」によれば、忠美は24歳年下のお絹を溺愛して、毎晩のようにご寵愛したそうです。1857年、花代はお世継ぎの「春若」を出産します。しかしその3年後に、忠美は病で逝去してしまいます。

わずか45歳の若さでした。

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お絹は当時の慣例に従って名を「真月院」と改め、仏門に入ります。しかし、普通の武家の娘ならこの後、生涯亡き夫の冥福を祈る生活を送るのですが、もともと信仰心の薄い漁師の子ですから17歳の子供にはそのような生活は馴染めなかったたのです。やがて欝状態になります。医師の勧めで箱根に転地療法することになり、お供をつれて箱根に行きました。箱根は奈良時代から続く名湯で江戸の絵師・鳥居清長の「箱根七湯名所」の絵で一躍有名になり人気が出て、沢山の人が湯治として利用していたそうです。


箱根逗留が10日ほどしたある夜、湯船につかりながら、満天の空を見上げていました。その夜はこうこうと月が輝いて静寂とした露天湯殿を照らしてました。お絹は、湯船のそばで火照った身体を夜風で涼ませながら江戸のことや亡き夫のことを考えてました。そして、思いおこせば主人を亡くしてからこのかた、男との交じあいもなく17歳の若さで寂しく仏門に入ってこうして男を近づけない生活を1年近くになろうとしている。

「浅草お絹」「江戸一の器量よし」と騒がれた日々を思うと、なんと侘しいことかとわが身の不憫を嘆くのでした。

愛おしさが増してそっと胸に手をやりました。未亡人とは言え、まだ17歳の若さです。持て余すような劣情に襲われ、人がいないのを幸いに淫らな気持ちをそっと慰めました。目が潤み顔を赤く上気させ息を弾ませてたその時、突然男が入ってきました。急なことで驚いたのですが、とっさに足を拭う仕草をして誤魔化しました。(次回に続く)


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■いきなり峯吉を


それからは、毎晩のように身体を求められて、お梅も待ち遠しくなるほどになっていきます。
けれど、峯吉は34歳の大人でしたが嫉妬深く独占欲が強いため怒ると子供のように分別がつかなくなる男でした。お梅が別れた沢村のことをまだ密かに好いていることを知った峯吉は、激しく怒りお梅をなじります。
別れても縁りを戻そうと人を介して沢村に連絡をとっていたのです。身体を満たす男がいても心を満たす男のことは忘れられないみたいな女心でしょうか。
このことがバレて峯吉と口論になりやがて二人の仲は険悪になっていきます。

1887年年(明治20年)6月9日夜9時すぎ、車夫に頼んで浜町2丁目の細川邸近くの横町に峯吉を呼び出したお梅は、突然無言で峯吉の腹を出刃包丁で刺したそうです。驚いた峯吉は、逃げましたが、大量の出血がもとで少し離れた場所で死んでしまいます。何が何かも分からぬままの死に方でした。犯行直後のお梅は、返り血を浴びて、血だらけで呆然と立ってました。声をかけられても動顛して歩けなかったそうです。その日の内に父親に連れられてお梅は自首しました。これが当時新聞紙上大騒ぎになった「花井お梅の峯吉殺し」といわれた事件の顛末です。


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美人芸妓の殺人に、新聞社が飛びつき、あっという間にお梅は「毒婦」に仕立てられました。お梅の写真が紙面に載ると美人だった事もあって、裁判では行列が出来るほど傍聴人が集まりました。無罪を主張しましたが、判決では、無期徒刑の判決が下されました。

15年後の1903年4月にお梅は恩赦で釈放されます。新聞で出獄を知った野次馬が刑務所に集まり騒いだため、早めに刑務所の裏口から出されたそうです。迎えに出たのは旦那の河村頭取と父親でした。
お梅は40歳になっていました。出所後、旦那の世話で1903年9月、浅草千束町(現、台東区千束)に汁粉屋を、続いて神田連雀町に洋食屋を、そして新宿の小間物屋を開業するのですがことごとくうまくいかず
次々に店仕舞いしてしまいました。最初は客で賑わうのですが、次第に興味本位の客足が遠のきついには閉店となるのです。その後、芸人に転じ寄席で芸者踊りなどを披露していたといいます。
1905年(明治38年)秋には旅回りの芝居を始め「「花井お梅の峯吉殺し」を演題にしていたそうです。
そうしてこうして、いつしかお梅も53歳となり、時代も大正となったある夏、新橋で「秀之助」と名乗った年老いた芸妓が座敷に出ていました。それが晩年のお梅の姿でした。(完)


■墓マイラーのためのメモ
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花井お梅は1916年(大正5年)夏、新橋の芸妓に戻り「秀之助」を名乗り再起を図りましたが、その年の12月13日に風邪をこじらせ蔵前片町(現・台東区蔵前1丁目)にあった「精研堂病院」に入院しましたが肺炎となり亡くなります。(享年54歳)お墓は西麻布2丁目の長谷寺にあります。戒名は「戒珠院梅顔玉永大姉」です。傍らに1935年の流行歌「明治一代女」を作詞した藤田まさとの歌碑が建てられています。碑には“十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の水に流した色のかず 花がいつしか命とり”と書かれています。
ここのお寺には有名人が多くて「坂本九」「井上馨」「榎本健一」「黒田清輝」「沖雅也」さんなどが眠っています。
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■あん、身体が勝手に


昔は社会的に妾が公認された時代でしたから、旦那以外の男性との不義密通はご法度でした。芸妓の世界でも旦那持ちは貞節を守らなければならないのです。でも、当時お梅は24歳の若さですから、時々はパワー全開の若い男に抱かれたかったのかもしれませんが・・・。
それに、役者の沢村は『中条きよし』似のイイ男でしたし、女泣かせのテクニックは老人のセックスしか知らないお梅の身体をめちゃめちゃに目覚めさせたのかもしれません。
当時の役者は江戸の名残で「女は芸の肥し」とばかりに、13とか14歳の頃は「陰間」と言われ男色として男の子を相手にしていましたが、25歳を過ぎると女の子や熟女を相手にしていましたから、男女両刀で、アチラの道にはずば抜けていたのです。特に、沢村は女形でしたから陰子(かげご)とか色子(いろご)と呼ばれ修行としてHに励んでいたのです。芸者は色町の子なので、それを悦ばせれば一人前みたいな、そういう意味で芸妓を相手にしていたのかも知れません。沢村と会うときは月に1度くらいですが、旦那の目を盗んでお梅のほうから、待合所や屋形船に昼間から深川あたりで頻繁に逢引してました。


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ある日、お梅が舞台用に贈った高価な着物を、沢村が別の芸妓にあげたという話を沢村の付き人(峯吉)から聞きます。それを聞いたお梅は「あんなに愛しているのに、ちきしょうッ!殺してやる!!」と刃物片手に源之助の家に暴れ込んだそうです。命に別状はなかったのですが、刃物三昧で気まずくなり、この事件で沢村との関係は終わってしまいます。その頃は、待合茶屋の経営もうまくいってなかったり、パトロンが他の子に熱をあげていたりでストレスが重なりイラついていたせいだったと、自白の時に語っています。
商売も、元々士族の父親が待合の経営などうまく出来る筈もなく、家では金銭のことでいつも口喧嘩していたそうです。峰吉は自分に告げ口したことで、沢村の付き人をクビにされたことを可愛そうに思い雇ったのですが男なしで悶々としているお梅の様子につけこんで、なにかと親切に立振る舞いお梅の気を引こうとするような男でした。

組合の会合で、父親が熱海に行った夜のこと、初夏とはいえ蒸し暑い寝苦しい晩でした。
お梅が自分の部屋で寝ていると、峯吉が大胆にも忍んできて「俺の女になれ」と迫りました。「いやいや」と抵抗したのですが無理やり肌襦袢に手を入れられ、もみあう内に腰巻がめくれて薄暗い部屋で、お梅の白い肌があらわになってしまいました。最初は激しく抵抗するのですが、男を知った女の身体は正直で、次第次第に許してしまうようになって、ついにはしがみついてしまいます。
(次回に続く)


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■15歳で水揚げされて


花井お梅(はないおうめ)は、1863年(元治元年)~1916年(大正5年)12月13日)に活躍した新橋の芸者さんです。

24歳の時に、犯した殺人事件が川口松太郎の「明治一代女」など、いろいろな演芸に脚色され、演じられたため悪女、毒婦として有名になった人です。
本名は花井ムメと言います。佐倉藩(千葉県)の下級武士・専之助の娘として生まれましたが、当時の下級武士は貧困な生活でしたから小さい頃に養女として出されるのが普通でした。お梅も9歳のときに3両で置屋に売られました。当時は、2両もあれば1年くらい生活できた時代ですから3両は大金でした。
しばらくは置屋で女中みたくして生活してましたが、すぐに踊りや三味線を学んで芸妓の修行に入りました。

15歳のとき柳橋の芸妓『小秀』となり水揚げされてます。水揚げの平均年齢は13歳くらいが普通でしたから、少し遅い年齢だったかもしれません。水揚げって花柳界では、お金持ちの旦那衆がセリで大金を払い『初夜権』を手に入れることです。旦那と呼ばれますが、その後も女の子を一生世話することになります。
別な世界ですが、陰間(男色)の場合は童貞を失うことを「水下げ」と言うらしいです。

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18歳のときに新橋へ移って『秀吉』を名乗っていたそうです。豊臣秀吉のように出世しようとしたためでしょうか。

晩年の芸名も『秀之助』と名乗っていましたから、よっぽど秀吉が好きだったのだと思います。
美貌で気っぷがよかったので、お梅をひいきにする男の子も多かったそうです。ですが反面、勝ち気で酒癖が悪く切れやすかったため、客とよく喧嘩するような難しい子でした。
しかし、そういう女も面白いと世話する男がいたのです。第百三十三国立銀行(滋賀銀行の前身)の河村伝衛という頭取でした。金満家でしたからお梅には湯水のようにして金品を与えていました。
花柳界には『旦那様制度』というのがあって、好みの芸妓を見つけると水揚を行いその後生涯に渡り金品の世話をするパトロン制度があります。芸妓の若手見習いから一人前になるまでにかかる多額の費用や着物から持ち物、装飾品や生活費まで、今のお金で数百万円~数億円を負担します。
1887年5月に浜町河岸で待合茶屋『酔月楼』を開業するときも、川村頭取は資金をポンと出してくれました。このとき、自分を花柳界に売った父親の専之助を、営業鑑札の名義人にしています。憎くくても親は親だったのでしょうか。しかし、お梅は旦那からは大層世話を受けながらも、一方ではいつかお座敷に遊びに来た役者の四代目・沢村源之助にぞっこんになり、これがきっかけで役者遊び
に耽けていきました。(次回に続く)


■負債総額は4,300億円


マスコミでも、ミナミの美人料亭女将、女相場師、女霊感師などと紹介され、金に群がる金融マンたちの実態が幾度も紹介されました。1987年4月頃から株取引を始め、自らも料亭と土地を担保に、銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになっていきました。
1988年夏には証券会社の支店長が、尾上縫の料亭に在駐するようになったそうです。
この頃はバブル絶頂期で、銀行はいくらでもお金を貸してくれた時代でした。
1988年(昭和63年)当時、尾上縫は2.270億円を金融機関から借りていました。

記録によれば、定期預金は400億円近く持っていたそうです。株取引で48億円の利益を得、金融債ワリコー(無記名・利子先払い)を288億円も購入し、55億円の金利を受け取っていたそうです。

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「ミナミの女帝」と呼ばれたのもこの頃でした。株取引も相場師気取りで大量売買を繰り返してました。
「恵川ビル」の一角には、祠の祭神・不動明王像の祭壇があって、入り口には大きな蝦蟇(ガマ)が控えていました。 そこでは週末ごとに「密業」という儀式が行われていました。
尾上縫の株の買い方は”神が乗り移った!神が乗り移った!”と叫ぶと、証券会社や銀行の幹部たちは床にひれ伏して尾上縫の御宣託を待つような方法でした。口の悪い証券マンは「拝み詣」と言っていたそうです。

「水が溢れている」と言えば水関連の会社株が売買されたそうです。こうして「お告げ」により銘柄を選び、銀行やノンバンクからお金を借受けて売買していました。

この頃の尾上縫の金融資産は2,650億円、負債は7,221億円の天文学的に増加してました。

資金に窮すると、かねて親交のあった東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻す手口で資金を回するような詐欺行為をしていました。
やがて、1991年8月13日に詐欺罪で逮捕されるまでにノンバンクを含む12の金融機関からの借入金総額は、延2兆7,736億円、支払額は延2兆3060億円に達してました。
逮捕後留置所で破産手続きを行った時は、負債総額は4,300億円にもなっていました。これは個人としては史上最高額だそうです。巨額の融資を行った日本興業銀行は富士銀行(いずれも当時の銀行名)と合併し、みずほコーポレート銀行(存続会社は富士銀行)となり、また、東洋信金は経営破綻し、府下の複数の信金へ分割併合され共に現存していません。
警察の「なんでこんな馬鹿な事をしたんだ」との問いに、尾上容疑者は「皆からチヤホヤされ続けたかった」と答えたそうです。
28億円の利益が出た時点でやめておけば一生安泰でした。6,000億円の時にやめていれば、歴史に名を残す偉大な個人投資家の一人になっていたはずでした。
2003年04月21日、懲役12年(実刑)が確定しましたが、警察がとことん調べて無一文のはずの尾上縫は、数日後に7億円の保釈金を払って出所したそうです。
この金を用意したのが誰だったかは、今でも明らかになっていません。
(完)

■ホンマよう吸いつきよるデ


尾上縫(おのうえぬい)は1930年(昭和5年)奈良県橿原市の農家の次女として生まれました。
1950年(昭和25年)、尾上縫(ぬい)は20才で結婚して長女をもうけますがその後すぐ離婚します。
その頃は、大阪・ミナミのすき焼き屋で仲居として働いていました。この頃の縫いは美人だったと言われ店でも人気がありました。上客と呼ばれるお客は、個室で仲居がすき焼きを作ってくれるのです。
個室で酒も入り、二人っきりの部屋ですからどうしても淫らな関係になってしまう場合が多かったかもしれません。
尾上縫は若い頃から「金持ちを見抜く目と、肉体を武器に男を虜にする能力」が優れていたと同僚は語ります。

後に、パトロンとなるこの男も、中堅の電気会社の社長さんで、大手の下請けとして当時は空調機を作っいたそうです。パトロンの名は川中良吉(仮名)と言い当時57歳でした。
日本は「神武景気」と呼ばれ、高度経済成長の始まりで景気がよい時代を迎えてました。尾上縫のアレは「あげまん」だったそうです。川中はHが終わるとかならず「ホンマよう吸いつきよるデ」ときまって下品に笑ったそうです。
尾上縫が男を誘惑する手口はいつも同じで「あなたの将来
を占ってあげましょうか?」と言って手相占いで近づく方法だそうです。川中の場合も、会社の買収話があってその吉凶を占ってもらったそうです。ところが偶然かどうか分かりませんが半年くらいして莫大な大金を手にできたそうです。この見返りみたくして尾上縫は、川中から店を出す資金を借りることができました。当時のお金で6億円と言われます。土地名義は川中でしたが大阪・ミナミに旅館の土地と建物を購入し料亭「恵川」を開業しました。


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1983年に7階建ての恵川ビルを建て、そこに「恵川」を移転。跡地を大衆料理屋「大黒や」として経営しました。

商売も順調にいっていたある日、証券会社の営業マンがNTTの上場に伴う株を「絶対値上がりするから購入されたらどうですか」と薦められました。1987年4月のことです。これで川中の借金を全てチャラに出来ると考えた尾上縫は、パトロンから、更に10億円を借りてNTT株を購入しました。2月9日NTT株が初上場すると買が殺到して初値がつかないほどの人気でした。10日、ストップ高で160万円をつけ、あれあれと驚くうちに23日には240万円の値をつけました。こうして尾上縫は28億円もの売却益を得ることができました。

巨万の富を得た尾上縫は注目され、次第に「恵川」には証券マンや銀行マンらが群がるようになっていきました。これがきっかけとなり世の中は次第に「財テクブーム」に向かっていきます。(次回に続く)


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■逢いたい一心で


お七が吉三郎と忍び逢うようになって何日すると、娘の様子がおかしいことに気づいた母親が夜にこっそり後をつけると、お七が吉三郎の部屋で全裸で抱き合って、艶かしい吐息を漏らしているのを目撃してしまうのでした。

養女とは言え、好色な娘を持った親の悲しみは深く、とにもかくにも二人を引き離すことを考えます。こうして本郷の店の再建を急がして、一家は早々に吉祥寺を去ることにしました。
その後のお七の胸の内は、いうまでもありません。毎夜のように恋焦がれて吉三郎を偲びます。ついには「もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ける」と考えるようになります。恋は盲目の例え通り、前後の見境もつかなく自分の家に火をつけ吉祥寺へと駆け出したのです。

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この放火が江戸の中心部を総なめにする大火となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止めボヤで済んだというのが真実のようです。
しかし、当時は厳しい「失火者斬罪令」(火付けは死罪)があった時代です。ましてや放火犯人は城下引回しの上死罪となります。事件から3ケ月後、天和3年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場で八百屋お七は「火あぶりの刑」に処せられます。

一方、お七の恋の相手の吉三郎は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立。名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。入寂したときは70歳を越えていたと言われています。(完)


■墓マイラーのためのメモ
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八百屋お七は寛文8年(1668年)~天和3年3月29日(1683年4月25日)の江戸時代前期に生きた、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘です。下総国千葉郡萱田(現在の千葉県八千代市)で生まれた農家の子と言われます。

当時、多くの子供は「口減らし」として乳幼児に殺生されるのが普通の時代で、後に幕府がたびたび禁止令を出すほど、農家では子供を「子返し」と言って間引きしていたそうです。

お七もそのような子でしたが、取引で訪れた八百屋・太郎兵衛が不憫に思い養女として引き取ったそうです。

裁判でも、哀れに思ったお奉行が評定で15歳なら死罪は免れると考え「お七、お前の年は15歳だろう」と水をむけても、お七は16歳ですと最後まで正直に答えたたため刑を免れなかったと言われます。

刑が確定すると三日間かけて、江戸城下を引き回したのちに、鈴ヶ森刑場で火刑に処されます。

辞世の句は「世の哀れ春吹く風に名を残し遅れ桜の今日散りし身は」です。遺体はお七の実母が哀れに思い故郷の長妙寺(千葉県八千代市萱田)に埋葬したといわれます。墓は、寛政年間に歌舞伎のお七役を演じた縁で四代目岩井半四郎が八百屋太郎兵衛家の菩提寺「圓乗寺」(東京都文京区白山1-34-9)に建立しました。

毎年3月29日がお七の命日です。

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