そーっと腕の中から抜け出そうとして抱き寄せられる。
起きたのかな?...そう思って、入江くんの顔を見上げる。
しっかりと閉じられた目蓋、緩やかに結ばれた唇、規則正しい寝息。
やっぱり寝てるんだ...ニマニマと緩んでしまう頬。
目が覚めたときにも感じた、胸に広がるくすぐったいような甘い幸せ。
久し振りに感じる慣れた重さ...あたしを包むように、肩の辺りに置かれた腕に指先で触れる。
目の前にある広い胸にすりすりと頬を寄せると、ほんの少し汗の匂いを含んだ入江くんの匂いがした。
ありがとう...入江くん、大好きだよ。
何もかもが幸せで、首を伸ばして、形のよい薄い口唇に、ちゅっとキスをした。
入江くんがぱちっと目を開けた。至近距離で思いきり目が合う。
「起こすなら、もっとちゃんとしろよ。」
びっくりして固まっているあたしに、入江くんがニヤリと笑う。
「ん..んっ...」
腕枕していた手がしっかりと後頭部を押さえ、肩にあった手はしっかりとあたしを抱き締める。
いきなりの深いキスに、口唇も、呼吸も、気持ちさえも、奪われてしまう。
「ほら、時間ないから一緒にシャワー浴びるぞ。」
「へ?チェックアウトまでは、まだ時間あるよ?」
「朝メシもルームサービスなんだよ。いいから早くしろ。」
力が入らなくて、何の抵抗もできないまま、そのままバスルームに連れ込まれた。
「時間ないって言ったのに...」
髪を乾かしながら、鏡越しにジトーッと入江くんを睨む。
「あんな状態で、メシなんて食えるわけねーだろ?」
入江くんは少しも悪びれる様子もなく、どことなくスッキリした顔で微笑んだ。
しばらくすると、ルームサービスの朝食が運ばれて来た。
今日は風もなくて暖かいから、テラスでも大丈夫と言われて、テラスで食べることにした。
焼きたてのパンも、ふわっふわのオムレツも、やさしいスープも、フルーツたっぷりのヨーグルトも、とっても美味しかった。
あたしたちはゆったり摂った遅めの朝食にすっかり満足して、素敵な時間をくれた部屋を後にした。
「どこか行きたい所、あるか?」
チェックアウトの手続きを済ませて、琴子に訊く。
「入江くんが嫌じゃなかったら、入江くんの部屋。」
琴子が遠慮がちに言う。俺は全然嫌ではないが、ハーバーランドはすぐそこだ。
「俺の部屋?デートしたいんじゃなかったのか?」
琴子が俺を休ませようと我慢している気がして尋ねる。
昨日、散歩しながら行くと言った琴子をタクシーに押し込み、結局長い時間ホテルに一人ぼっちにしてしまった。
俺がホテルの部屋に着いた時、テーブルにはテキストやノートが出しっ放しで、琴子がしっかり勉強していたと分かった。
褒美という訳ではないが、腹が減るまでブラブラして、メシを食って駅に送って行けばいいと思っていた。
「あんなに素敵な結婚記念日のデートをしてもらったんだもん。もう十分だよ。」
琴子はうっとりと想い出すような表情をして、満足そうに笑った。
「わかった。俺の部屋でいいんだな。」
俺の為に遠慮や我慢をしている訳ではなくて、俺の部屋で一緒に過ごしたいと心から思っていることがわかった。
「うん。入江くんの部屋がいいの。」
ニッコリと笑った琴子に微笑を返して、俺たちはエントランスからタクシーに乗り込んだ。
ドアの鍵を開けて、琴子を先に部屋に入れる。
「お邪魔しまーす。相変わらずキレイにしてるね。せっかく掃除しようと思ったのに。」
少しつまらなそうに言う琴子。
「病院に泊まることも多いし、帰って来ても寝るだけだからな。」
「そうだよね...」
電話も碌にできないし、俺の忙しさは琴子も十分にわかっている。
「大丈夫だ。」
心配そうに眉を寄せた琴子の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「入江くん、コーヒー淹れようか?」
琴子が俺を見上げて言う。
「ああ。頼む。」
「ちょっと待っててね。」
琴子がいそいそと小さなキッチンに向かった。
抱き締めたくなる気持ちを抑えて、キッチンに立つ琴子の後姿を眺める。
琴子がいるだけで、殺風景な部屋が温かく感じられる。
コーヒーの芳しい香りが漂ってきた。
「お待たせー。」
琴子が運んできたマグカップを受け取る。深く息を吸って、馥郁とした香りを楽しむ。
琴子はそんな俺の様子を嬉しそうに見ながら、小さなテーブルの角を挟んで腰を下ろした。
「美味いな。」
しみじみと呟く。久々に味わう琴子のコーヒーは、いつも通り格別の味がした。
「よかった。」
色違いのマグカップを両手で包んだまま、俺を見つめていた琴子がふんわりと咲(わら)った。
~To be continued~