そこまで深く考えて言った言葉じゃなかった。
ただ、小高さんが心配で、旅行中に何かあったらと不安で、つい思いつきみたいに言ってしまった。
正直に言えば、ほんの少しだけ期待もあった。
いつも慰安旅行に行くのを嫌がっていた入江くん。幹事に泣きつかれるから仕方なく参加してた。
俺も行くの止めようかな...もしかしたら、そう言ってくれるかもって思った。
『今頃なに言ってんだ?迷惑だろ?』
迷惑って入江くんが言ったのは、部屋割りとかそういうのが全部決まってるからだって思った。
『ただでさえ人が少ない時に、お前が残る方が迷惑なんだよ。』
そんなこともわからないのかという顔をして、呆れたように言った入江くん。
一人前に仕事ができないあたしが残ると、一緒に働く人に迷惑が掛かる。
...入江くんが言ったのは、そういう意味だった。
『人前で告白するようなあんたには平気だろうけど、俺には迷惑でしかないんだよ。』
同居してることがみんなにバレてしまったとき、入江くんにそう言われた。
『...これ以上、好きになるな。本気で迷惑だ。』
追いかけようとしたあたしに、入江くんは振り向きもせずにそう言った。
ラブレターを突き返されても泣かなかったのに、後から後から涙が出て止まらなかった。
入江くんの『迷惑だ』という言葉は、あたしの胸を抉った。
入江くんが好きで、好きで、大好きでたまらなかったから、好きだって気持ちを迷惑だって言われたことが辛かった。
入江くんを好きだから、迷惑を掛けたくない。
迷惑を掛けたら、入江くんを好きでいられなくなる。
結婚する前、あたしはずっとそう思っていた。
でも、あたしは疫病神みたいに、入江くんに迷惑を掛けてばかりで...
それなのに、入江くんはあたしと結婚してくれた。
誰からもお似合いだと言われていたあの女性(ひと)よりも、あたしを選んでくれた。
入江くんを好きだから、迷惑を掛けたくない。
迷惑をかけたら、入江くんはあたしを選んだことを後悔するかもしれない。
結婚してから、あたしはずっとそう思っていた。
あたしは看護科のときから落ちこぼれで、お医者さんになる入江くんのお手伝いがしたいっていうのが看護師になりたかった一番の理由で動機も不純だったし、自分が出来のいいナースじゃないってことは十分わかってる。
でも、自分なりに頑張っているつもりだったし、入江くんもわかってくれてるって思ってた。
まだ何もしていないうちから、入江くんに迷惑になるって言い切られたことがショックだった。
入江くんのばか...あたしはシアタールームのソファで泣きながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
「琴子ちゃん...元気ないね。」
血圧を測る準備をしていると、小高さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「そんなことないですよ。」
今日はうまく笑顔が作れなかった。
「男前の先生と...ケンカでもしたのかい?」
ごまかせばいいのに、すぐに返事ができなかった。
「大丈夫...琴子ちゃんと先生は...とってもお似合いなんだから。」
小高さんがあたしの手を握って、やさしく撫でながら言う。
「前も...そう言ってくれましたよね。」
あの日も、小高さんはやさしく微笑(わら)って、あたしの手をそっと撫でてくれた―――
小高さんが最初に入院してきた春先のことだった。
新人ナースや他の病院から来たナースに品定めされる、あたしにとっては気の重い季節だった。
退院した患者さんのベッドのシーツを交換するために、リネン室に向かった。
扉に手を掛けようとして、中から聞こえて来た声に足が止まる。
「なんかガッカリだったね。入江先生の奥さんは、もっと素敵な女性がよかったな。」
「そう?私はチャンスあるかもって、ちょっとテンション上がったけど?」
「えーっ。だってさ、彼氏に紹介された友達が、ないわ~って人だったら、彼氏にも幻滅しない?」
「あ~、あるね。」
「でしょ?入江先生がこんな人がいたのかって思うくらい完璧なだけに、残念過ぎるよ。唯一の欠点?」
「やっだ~、言い過ぎぃ~」
クスクス笑う声に身体は熱くなるのに、唯一の欠点という言葉が胸に刺さって、血の気が引いていく。
涙が溢れてきて、トイレまでは遠くて、すぐ目の前にあった小高さんの病室に逃げ込んだ。
小高さんは泣きながら飛び込んで来たあたしに驚いていたけど、あたしをベッドに座らせてカーテンを引いてくれた。
小高さんは何も聞かないまま、背中を擦ってくれた。
小さい頃、母さんにもこんなふうにしてもらったことを思い出した。
不思議と気持ちが落ち着いて、すぐに泣き止むことができた。
「ありがとうございました。本当にすみませんでした。」
お礼を言って、病室を出て行こうとした。
「琴子ちゃん、息子が舟和の芋ようかんを持ってきてくれたんだけど、今日中に食べなくちゃいけなくてね。
仕事が終わってからでいいから、よかったら手伝ってくれないかい?」
小高さんは本当に困っている様子だったから、あたしは帰る前にもう一度病室を訪ねることにした。
お茶を淹れて、芋ようかんを二人で食べた。そろそろ帰ろうと思ったとき、
「琴子ちゃん、そんな顔で帰ったら、男前の先生が心配するよ。嫌なこと全部、おばさんに吐き出しちゃいな。」
小高さんがやさしく微笑(わら)って言ってくれた。
唯一の欠点とまで言われたことを、幹ちゃんたちには言いたくなかった。
なぜか小高さんになら話せる気がした。あたしは昼間の出来事を小高さんに聞いてもらった。
「大丈夫...琴子ちゃんと先生はとってもお似合いだよ。その子達、ヤキモチやいたんだよ。」
小高さんがあたしの手をとって、そーっと撫でながら言った。
小高さんのふくふくとした手に、あたしの涙が零れて落ちた。
『だぁいじょーぶ。琴子はいい子だよ。』
母さんも泣いてるあたしをふんわりと抱きしめて、いつもそう言ってくれた。
大丈夫...そう言ってくれた小高さんの声と言い方は、母さんにそっくりだった。
「それにね。私は琴子ちゃんは先生の欠点じゃなくて、唯一の弱点だと思うよ。」
「どっちも同じじゃないですか?」
「先生に聞いてみるといいよ。」
小高さんがイタズラっぽく笑った。
その夜、あたしは入江くんに、弱点と欠点の違いを聞いた。
「どっちも不十分なところとか、足りないところって意味があるけど、欠点は難のあるところ、改めるべきところで、弱点は必ずしもそうじゃない。」
説明を聞いてもあたしはまだよくわからなかった。入江くんが続けて言った。
「そうだな。〈相手の弱点をつかむ〉って言うよな。でも、相手の欠点をつかむとは言わない。
弱点は、その人の難のあるところだけじゃなくて、その人にとって大切なものだったりもするだろ?」
「大切なもの...」
「何だよ?急にニヤニヤして?」
「ううん。何でもない。」
~To be continued~