いつもと変わらない朝。一番早く出掛ける裕樹が一階に下りていき、俺が着替えを済ませた頃、ノックの音がする。
コンコンッ
琴子だ...バタバタと部屋に飛び込んで来た昨日とは打って変わって小さく遠慮がちにドアを叩く音。
それだけで琴子がどんな様子なのかわかる。
俺は返事をしないまま立ち上がり部屋の入口に向かう。ドアをそっと開ける。
想像通り目を伏せて俯いている琴子が立っていた。手を引いて部屋の中に入れる。
「おはよう。琴子...ちゃんと顔見せろよ。」
できるだけ優しく言うと琴子が顔を上げた。大きな目に薄っすらと涙が浮かんでいる。
溜息を飲み込む。昨夜琴子が書いたはしゃいだノートを見た時から、こうなることは予想がついていた。
琴子の気持ちを聞いてやる為に声を掛ける。
「琴子、どうした?」
「目が覚めたら一晩で冬になってて...どうしてこんなことになったかはノートを読んだからわかったけど...」
「戸惑うなって方が無理だよな...」
本当にそう思う。俺が琴子の立場だったら...何度も考えたことを思う。
「...昨日の朝はたくさん覚えてられたんでしょ?これから少しずつ良くなるって...
確かにクリスマス・イヴのことは私も覚えてるみたいだけど...昨日のことはいくら考えても何一つわからなくて...」
不安そうに揺れる潤んだ瞳。
「そうか...でも、昨日のことを何も覚えていなくても焦ることないんだぞ。
時間が掛かるのは最初からわかってたんだ。ノートに俺が書いたこと読んだのか?」
「うん。読んだよ。入江くんが覚えてなくても気にするな、大丈夫って書いてくれててうれしかったよ。
でも...怖いの。もしもこのまま――」
それ以上言わせたくなくて、泣いている琴子を抱き寄せた。宥めるように頭を撫でる。
「本当に大丈夫だから。ゆっくりでも確実に良くなってるから...俺がついてる。心配すんな。」
「ふぇ...入江くん...」
「チビの散歩、行くだろ。支度して来いよ。」
「...うん。」
琴子を連れて階段を下りて行くとオフクロがいそいそと近付いて来た。
オフクロは琴子からどんな話が聞けるか楽しみにして待ち構えていたのだろう。
琴子の姿を目にした途端、膨らんでいた期待が空気が抜けるように萎んでいくのがわかった。
オフクロの変化を敏感に感じ取った琴子が身体を硬くする。
「散歩行ってくる。」
微かに苛立ちの滲む声でオフクロにそう告げ、チビのリードを手にする。
「琴子、行くぞ。」
琴子の手首を掴んで玄関を出た。
「寒っ。今朝は一段と冷えるな。琴子、寒くないか?」
「うん。大丈夫。ありがとう。」
琴子の手首を掴んだまま庭に回る。チビが琴子の足元に擦り寄って来た。
琴子がチビの前にしゃがみこむ。両手でチビの首をくしゃくしゃと撫でる。
チビが涙の跡が見えているかのようにペロペロと琴子の頬を舐めた。
「ふふっ。もーっ。チビったらくすぐったいよ。あはは。」
琴子がやっと笑った。琴子の笑顔にほっとする。
ほんの少し...俺じゃなくてチビが琴子を笑顔にしたことが悔しい。
リードを首輪につける為に屈む。チビが俺の方を見る。チビの目を見て声に出さずに話し掛けた。
チビ...おまえだから許すけど、あんまり琴子の顔舐めるなよ。琴子は俺のもんなんだぞ。
「クゥーン」
チビが困ったように鼻を鳴らした。別に怒ってるわけじゃないからな。
チビをガシガシと撫でる。チビが嬉しそうに尻尾を振った。
「行こうか。ほら。」
右手でリードを持ち、琴子に左手を差し出す。おずおずと俺の手に琴子の手が重ねられた。
ぎゅっと握ってそのままポケットの中に入れる。驚いたように琴子が俺を見上げる。
素知らぬ顔で歩き始める。目の端に映る琴子の含羞(はにか)んだ笑顔。
ずっと笑っていて欲しい。どんなことがあっても俺が琴子の笑顔を守る...柄にもなくそう思った。
~To be continued~