復帰してから、10日が経った。
現在の仕事の制限時間は、6時間。6時間ぐらいすると、頭痛やめまいがやってくる。昨日は、めまいだった。
脳のメカニズムが知りたい。なぜ、こんなふうに体調が悪くなるのか、その理由が知りたい。元気そうに働いているが、限界に達すると突然体調不良になるため、周りからは理解されず、その理解されていない空気が見えるのは、HSPだからだろう。
「理解されたいと思わなくていいじゃないか。僕だって分からないよ」
息子は、ウジウジの私にキッパリと言う。私は、なぜ居心地が悪いのだろう? 社内の人にそこまで執着もないはずなのに、できないと思われることが嫌なのだろうか。
今朝、息子の同日模試の結果が返ってきた。
結果は、微妙……毎度のことで、あぁやっぱり、と思わずにはいられなかった。
その中で、安定的に結果を出す唯一の教科がある。それが、英語だ。
「パパはすごいね」
本人の前なのに、つい本音が出てしまう。あぁ、しまった……と本人をほめてあげるべきだと思うのだが、優れた指導力は受講ブースの中からではなく、やはり「人間」でないと授けられないのかもしれない。
元夫以上に指導力のある人を見たことがない。
単に「点数が取れる人に育てる」ということに限って言えることだが。塾講師でも点数を取らせられない人も多く、ひどい人になると伸びる力を奪いかねないこともある。合格率や塾の評判で皆は塾を選ぶが、本来は先生の指導力で選ばねばならない。
「パパの力を、誰かに授けなければもったいないね。弟子でもとって教えたらいいのに」
息子に話をした。過酷な毎日を過ごしているけれど、私みたいに元夫は病むこともない。
「でも、それこそ『感覚』が必要なのかもよ。だから、人に技術を伝えることは難しいのかも」
息子の言葉も、間違いではないかもしれない。
「ママはさ、パパに教え方を教えてもらっていたことがあるんだよ。高校生への教え方がわからなかったんだ。パパの教え方は一番だって分かっていたからね。でも、教えてもらっていることが悔しくて、悔しくて、それで結婚生活がおかしくなり始めたんだ」
当時、私は自分らしい授業をしたかった。それでも、日々求められる結果へのプレッシャーに負け、元夫から教え方を学んでいた。謙虚に学べばいいのに、当時の私は誰にも負けたくなかったから、悔しくてたまらなかった。今のように距離があったら、素直に学べたかもしれないけれど、夫婦とはそんなものなのだろうか?
今思えば、あの時、歯車が大きく狂ったような気がする。
「でも、きっとママがパパの教え方を継いでいるんじゃない? 人から受け継ぎながら、時代に合わせて変化していく伝統技術のように、ママの中にその教えがあるんだよ」
私の中に、受け継いだものはあるのだろうか?
仕事を投げ出したくなり逃げたくなる今、自分自身の中にあるものを見つめる。元夫から学んだことは、今の私の中に残っているだろうか?
元夫とは結婚生活はうまくいかなかったけれど、仕事をする上で学んだことはたくさんある。もうすぐ、30回目になるはずだった結婚記念日がやってくる。もう二度と祝うことはないけれど、それでも「ただの失敗」と思わず、
25年の結婚生活の中で得られたものを考えてみたい。
きっとどんな道の中にも、得られるものがある。
今、私が経験している適応障害からも、得られるものがあるはずだ。
息子が、合格できるか分からない東大への厳しい勉強をしていることも、結果だけではなく得ているものがたくさんある。
成功、合格、楽しかった経験……全て得られると嬉しいものだけど、もしそれを得られなかったとしても、きっと得ているものはある。
結婚生活だけに執着していた私は、元夫をずっと憎んでいた。
それでも、今距離を置くことで、彼の素晴らしさを改めて認め、息子にそれが伝えられている。どちらの選択肢にも、必ず得られるものがあり、間違った人生選択なんてないのかもしれない。
それならば、今、自分がどう生きたいか。それに素直に従うのが一番なのかもしれない。
今の私は、どう生きたいかを少し迷っているけれど、それでも逃げずに考えて、自分の心に正直に進んでみたい。