何も予定がない休日。

つい始めてしまった掃除に取り憑かれ、気づくと3〜4時間不要なものを処分している。

 

 

 

なんだろう?

その興味で、とんでもないものが次々と出てきたりしながら、忙しかった頃の自分を振り返っていた。息子が小さかった時は、日々の忙しさが今以上だった。




小学生の頃は、毎日、息子のマネージャーのように習い事の送迎をし、宿題をさせ、話を聞いてあげ、ご飯を食べさせねばならず、あっという間に時間が過ぎてしまった。とにかく「早く、早く!」と動いていた。だから、自分のことなど考える余裕もなかった。

 

 

 

掃除をしながら、クローゼットを開けると、元夫が着ていた服が、黄ばんでいることに気づいた。

いつか帰ってきてもいいように、と元夫は服の半分を置いていったのだ。その後、コロナがやってきて、家から遠ざかるしかなく、気づいたら離婚までしていたので、さらに帰らなくなってしまった。

 

 

 

ものを通して、人は、過去を思い出す。

手に取ると、あの日々が見える。私は元夫がしたことに対して怒りを感じることで、自分自身の心を保っていたかもしれない。自分が深く傷ついていることに向き合えなかった。向き合ったら苦しくてたまらないから、息子のために生きることで前に進んでいる気になっていたのだろう。

 

 

 

感傷的になりながら、さらに棚にある不用品を探し始めると、手書きの作文用紙のようなものを見つけた。

どうやら詩のようだ。

 

 

 

パパのおならは大きい

パパのひげはいたい

パパのくつはくさい

でもぼくはパパがすき

いっしょにあそんでくれるから

 

ママはおこるとこわい

ママの話はながい

ママのうんてんはあらい

でもぼくはママがすき

ぼくを思ってくれるから

 

 

 

小学2年で、詩がどんなものか勉強もしていないのに、詩を書いてくることが週末の宿題だった。小学校とは、時に無茶な宿題を課してくるものだ。ちょうど家族で出かける際に、車の中で、「宿題どうしよう?」と話したのを覚えている。

 

 

 

「パパのおならは臭い! とか書けばいいんだよ」

元夫がネットで検索したら、等身大の表現をすればいいと書かれてあったようだ。

息子に形容詞を探させ、みんなでゲラゲラ笑いながら、車の中で息子は詩を考えた。

 

 

 

宿題になった詩は、全て芸術祭に出されることが決まっていた。クラスで発表があり、息子の番になった。1行ごとに皆が大爆笑。

息子は、少し誇らしげに「ウケたよ!」と帰ってきた。

 

 

 

応募前に、担任の先生から、「あの作品、本当に出していいですか?」

と困ったような顔で確認された。

何が悪いのだろう? 正直でいいじゃないか? と思ったが、真面目な先生には耐えられなかったのかもしれない。 

 

 

 

結局、息子の作品は、佳作に入った。

ユニーク賞といったところだろう。

表現するというのは、賞には関係なく楽しいものだ。

 

 

 

「爆笑の詩」ということで、我が家では忘れられない思い出となったが、どんな詩だったかを時間が経つごとに忘れ、「おならが臭い!って書いた詩」となっていた。ふとファイルの中から出てきた詩を読み、当時が懐かしく思い出された。

 

 

 

何かを手に取り、当時を振り返る。

ビデオを再生するように、頭の中に映像が浮かび上がると、自分自身の心が見えてくる。その時は生きることに夢中だったから見えなかった自分自身が、もう少し冷静に見えてくる。

 

 

 

たった4時間くらいだが、10年前にタイムスリップして自分自身に会いに行ったような気分になった。

 

 

 

あの頃より、今は息子も私も自分に正直に生きているような気がする。

今に至るまでにたくさんの苦しみを乗り越えたけれど、息子が詩を書いた頃より、私たちは前に進めているようだ。

 

 

 

過去の苦い思いはもういらないけれど、担任の先生に嫌われた息子の「詩」は不用品にはせずに、大事に取っておこう。