何気なくネットニュースを読んでいたら、惨事ストレスという言葉を目にした。
駅で倒れていた方に、応急手当を施した話のようだ。思わず身体が動き、救急車の到着まで何もせずにはいられなかったという。
 
 
 
その後、救急車が到着し、そのまま病院へ運ばれた。感謝の言葉もなくその場に残され、「あれでよかったのか?」「もっとよい助け方があったのではないか」 と心がモヤモヤしたようだ。
 
 
 
結局、倒れた方が亡くなったとご家族から後に知らされ、ますます心に重い影を落としたそうだ。人を助けて素晴らしい行為をしていても、苦しむ心理が伝わってきた。
 
 
 
息子が、少し前に、列車の中で倒れた人に遭遇し、その場にたまたまいた医師の手伝いをしたことがあった。息子の場合は、医師に言われたまま動き、助けに加わった満足感が残ったが、落ち着くと怖さがやってきたようだ。非常時というものは、心に負担がかかるのだろう。
 
 
 
救急車が到着前に救命処置がなされると、倒れた人の生存率は上がるそうだ。学校でも、必ず助けるように、と習うようだ。
実際に、命を救うために有効だと証明されている一方で、女性が倒れた際に、助けた男性がセクハラ被害で訴えられてしまうこともあると息子から聞いた。
 
 
 
もし家族だったら……命を救おうと、見知らぬ人が心を寄せてくれたことに、何よりも感謝を抱くだろう。
もし息子が倒れたら、誰かにそばにいてほしい。
私が5歳の頃、車にはねられ身体が痺れていた時、小さな私を抱き上げてくれた人の手の温もりを、今でもはっきりと覚えている。  



例え何もしなくても、心配な気持ちでその場に寄り添ってくれただけで、心が与えてもらえた気がする。
 
 
 
私は、10年以上前に手術をした。
冷たい手術台に横たわるのは、大人でも怖い。麻酔をする前は、全裸で数分待つが心細くなる。このまま目が覚めなかったらどうしよう……大人のくせに、恐怖から涙が込み上げるが、平気なふりをする。
 
 
 
その時、看護師さんが、私の腕に手をそっとおいた。まるで私の心の動きが分かっているかのように、絶妙なタイミングだった。手当てという言葉通り、安心感があった。医療行為とは言えないかもしれないその動きが、手術前の私には何より心に染みてきた。
 
 
 
倒れた人に必要なのは、救命処置だろうが、心だって必要な気がしてならない。
息子にそんな話をすると、
「僕はセクハラで訴えられるかもしれないと思っても、その場で動いて人を助けられる人でありたいと思うけどね」
あっさりとそんなことを口にした。
 
 
 
模試の結果が良かった日より、心がほっとした朝だった。