
最近、昔を思い出すような感情を味わっている。
息子がお腹にいたとき、私は日本語と英語の絵本を読み聞かせていた。
どちらも普通に存在する言語。そう息子に伝えたかったのだろう。バイリンガルになってほしいなんて思わなかったけれど、英語はまずは2000時間聞かせることが必要と言われていたから、早くから聞かせることに対しての戸惑いはなかった。
自宅で教室を始めたとき、お気に入りの教材があった。子供の心を惹きつける魅力がある。よく観察し、心理を考え、日本人としての特性をも考慮した教材は、どこの会社のものよりも教えやすく、そのトップに立つ先生を私はとても尊敬していた。
息子が小学生になり、その会社が主催する英語のコンテストに出るようになった。
小学1年生〜中学3年生までが、部門ごとに競うことができる。その中に絵本部門があった。
小学1年生の息子に合いそうな、かわいらしいクマの絵本を先生が選んでくれた。
外に遊びに行きたくて、皆に「外に行こう!」と呼びかける。やっとの思いで一緒に出かけてくれる人を見つけるが、ズボンのお尻が破けていることを指摘される。
先生は、お尻に破けた模様をつけ、お尻をふってそのズボンを脱ぐ動作を考えた。
舞台の真ん中で会場の笑いを誘い、その脱いだズボンをぐるぐる振り回して会場に投げ捨てる、というドリフのコントのような演出だった。
全国大会に出られるのは、4組程度。
その中で、最終選考で1位になると、大きなトロフィーがもらえる。
初めての出場だったから、先生と私は出られるだけで十分だった。
1位になりたいなんて、全く思わなかった。
ところが息子は、光り輝く大きなトロフィーが欲しかったのだろう。
もらえなかった瞬間、顔が青ざめてしまった。
1位になれたのは、小学6年生。
大きな子でとても上手だったし、仕方がない。でも息子は、そうは思わなかった。悔しくて、悔しくて、帰りの新幹線の中でずっと涙を流し続けていた。何かを得られずに、悔し涙を流したのは、これが初めてかもしれない。
数年が経ち、息子はスピーチ部門に出たことがあった。
どうすれば、1位になれるだろう?
1位を目指すことよりも、みんなで一つのことを作り上げることが、私には楽しかった。
スピーチ原稿を息子と考えるのは私。ジェスチャーを考えるのは元夫。パワーポイントのスライド作りを先生が教えてくれ、アメリカ人の子どものスピーチ動画を見つけてくれたのは、先生の息子さんだった。
みんなで知恵を出し合い、舞台に向かう。
ちょうどその年、息子と同じ歳の男の子が、同じ部門で競うこととなった。
結局、息子は勝つことができたが、緊張でスピーチがうまくいかなかった男の子は、舞台から戻ってきて涙を流した。数年前の息子と同じだ。人ごととは思えなかった。
何かを競えば、勝つことも負けることもあるのが、当たり前。
どちらの道に進んでも仕方がないと覚悟して、臨まなければならない。
それでも、同じ教材で学び、同じように練習に励んだその子を思うと、我が子の笑顔が見られて最高に幸せだと思うことができなかった。
そんなことを、今の私は再び感じている。
息子には、今年こそ大学生になってほしい。
それでも、浪人した春の心の痛みを知った私は、我が子だけが幸せならいいとも思えずにいる。
この1年の苦しみは、味わいたくても味わえないもの。
昨年、大学には選んではもらえなかったけれど、神様に選んでもらったと思うしかなかった。
絶望の中を歩み出したあの苦しみを思うと、きっと今この瞬間にも同じように苦しい人がいると、容易に想像がつくようになった。
頭で考えられた1年前とは違い、心で痛いほど感じ理解している。
だからこそ、どこかで苦しんでいる人もいると思うと、それはどうしようもないのだけれど、雲ひとつない青空のような爽やかさでは、喜べないのだ。
ブログを読んでくださる方の中に、もしかしたら、今、苦しい思いをしている人がいるかもしれない。そんなことが心をよぎると、大喜びができないことも事実。もちろん、息子はまだまだ余裕がなく、発表が不安で、ソワソワしている。
心を痛めた経験は、人を理解できることにつながる。
それは、とてもいい経験だけれど、周りの空気を感じる私には、この中途半端な今が少しだけしんどかったりする。
競わずにすむ世の中なんて無理だけれど、我が子の受験は早く終わってほしい。
そして、毎年受験という仕事を選んでしまった私は、過酷だなぁ、と思ったりする。
桜の咲く季節は、1年でいちばん華やかなとき。
でも、1年でいちばん切なかったりする。
複雑な感情が入り交じる今、我が子の幸せだけでなく、他者への思いやりも大切にしたい。
